石清水八幡宮巡礼
秋の京都を巡礼していきます。
石清水八幡宮
京阪電車石清水八幡宮駅にやってきました。
一の鳥居からお参りしていきます。
これが石清水八幡宮の摂社の高良神社です。まずここから攻めていきます。
高良神社は兼好法師の「徒然草」の「仁和寺にある法師」で描かれたことで知られます。
ある日、仁和寺の和尚が石清水八幡宮を詣でようと訪れ、極楽寺、高良神社を詣でた。参詣を済ませ、さて帰ろうとしたとき、人々は山頂をめざして階段を登っていく。何だろうと思ったが、私は今回の旅の目的である石清水八幡宮に参詣を済ませたのだからと帰ってしまった。後で石清水八幡宮が山頂にあることを知って、どんな小さなことでも、案内人は必要だと痛感した。
こっちの方へ歩いていくと、石清水八幡宮に上れます。山頂へと上っていく近隣の人たちが見られました。「何事かありけん?」とわざとらしく思いつつ、私も上っていくことにしました。
これは安居(あんご)橋です。
大きく半円を描いた形は、別名「たいこ橋」と呼ばれています。
二の鳥居です。
八幡宮が鎮座する男山はケーブルカーでも上がっていけるんですが、徒歩でも20分位で登れます。近隣の人たちは健康のためか、毎朝の散歩で登っているみたいですね。
石清水八幡宮は宇佐神宮(大分県)・筥崎宮(福岡県)とともに日本三大八幡宮の一つと言われます。宇佐八幡だけまだ行ってないんですよね。また本殿は伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟といわれます。
大扉稲荷社。
八幡宮は源氏の氏神として信仰され、源義家は石清水八幡宮で元服し、「八幡太郎義家」と名乗りました。
以来、国家鎮護、厄除開運、必勝・弓矢の神として時代を超えて人々の篤い信仰を受けてきました。
ちょっと裏参道を登っていきました。
この竹林がかの発明王トーマス・アルバ・エジソンの目に留まり、白熱電球のフィラメントの材料に採用されました。
三の鳥居までまわってきました。
一ツ石です。
「勝負石」とも呼ばれる勝負必勝・勝運の石らしい。
南総門が見えてきました。
国宝・本殿です。
寛永年間の1634年に、徳川家光によって再建されました。
楼門です。
これほど素晴らしいのに、国宝指定は割と最近なんですね。2015年だそうです。
この御神木は樹齢700年。かの楠木正成が植えたものと伝えられます。
実は早朝参拝でした。神社は人気の無い朝が清々しい。
これはエジソン記念碑です。19世紀末、エジソンは白熱電球の点灯時間を延ばすため、ありとあらゆる材料を使って実験を繰り返していました。そんな折り、研究室にあった扇に使われていた竹を使って実験すると、思いのほか良い結果を得たため、世界各国に最良の竹を求めることになりました。
1880年、エジソンの特命を受け、日本にやって来た助手のウイリアム・H・ムーアーは、京都府知事の槙村正直から「竹なら八幡か嵯峨野がいい」と紹介されます。そしてムーアによって男山付近で採取された真竹がエジソンの元へ送られたのですが、結果は驚くべきもので、約1000時間も明かりを灯し続けることに成功しました。以来、男山の竹はエジソン電灯会社に輸出され、何百万個の馬蹄型フィラメントの白熱電球が作られ、全世界に明かりを灯し続けたのでした。
ケーブル駅そばの展望台にやってきました。
宇治川・木津川・桂川の三川をはさんで、大山崎の天王山を望みます。
谷崎潤一郎の文学碑もありました。
帰りはケーブルカーで降りていきます。
鞍馬寺・貴船神社巡礼
秋の京都を巡礼していきます。
鞍馬寺
叡山鉄道鞍馬駅にやってきました。
色づき始めもなかなか美しいものですね。
鞍馬といえば鞍馬天狗。鞍馬山の奥に住み、牛若丸こと源九郎義経に剣術を教えたという伝説が伝わっています。
鞍馬寺へと向かいます。
まず仁王門へと向かいます。
鑑真の高弟・鑑禎が奈良時代末の770年に草庵を結び、毘沙門天を安置したのが始まりといいます。
この仁王門は明治の再建です。
童形六体地蔵尊です。この辺りからケーブルカーにも乗れるんですが、歩いていきます。
由岐神社です。
重文の拝殿です。豊臣秀頼による再建です。
大杉は樹齢800年だとか。
この地で源九郎義経は、7歳の頃から10年間、武芸に励みました。
1940年に建てられた義経供養塔です。
このあたりは九十九折参道といい、清少納言が「枕草子」で記しています。
「近うて遠きもの くらまのつづらおりといふ道」
中門です。
貞明皇后の後休息跡です。貞明皇后は大正様の皇后陛下でした。1924年に鞍馬寺に行啓しました。
転法輪堂と洗心亭です。
若林さんという方の版画に心を奪われました。
転法輪堂には阿弥陀如来坐像があります。
標高410mの本殿金堂に到着しました。
翔雲台です。
ここから奥の院参道に向かいます。
与謝野晶子書斎の冬柏亭です。
東京から移築したものです。
与謝野夫妻はいろいろな土地に出かけてますね。歌碑とかどこに行ってもあるし。
義経息つぎの水です。
幼き義経が天狗に兵法を習うために深夜、奥の院に向かう際に、この地の湧水を飲んで一息ついたそうです。
屏風坂の地蔵堂です。
義経の背比べ石です。義経は16歳になって、平泉の藤原秀衡の元に向かいます。鞍馬を去る際に、この石と背比べをして名残を惜しんだとされます。
この辺りは僧正ヶ谷と言われ、義経が天狗に兵法を習ったと言われます。
義経堂です。奥州で非業の死を遂げた義経の魂は、懐かしい鞍馬山に戻り安らかに鎮まっていると伝えられ、遮那王尊として祀られています。
不動堂です。
奥の院魔王殿です。
「魔王殿」は太古、護法魔王尊が降臨した磐坐・磐境として崇拝されてきました。
西門が出口となります。
貴船川を越えて、貴船神社に向かいます。
貴船神社
貴船神社の創建を明記するものは残っておらず、創建の年代は不詳です。天武天皇の御世に、すでに御社殿造替が行われたとの社伝が存在することから、創建は極めて古いと考えられます。
水神を祀り、古くから祈雨の神として信仰されました。水の神様として、全国の料理・調理業や水を取扱う商売の人々から信仰を集めています。
絵馬発祥の社と言われます。
本宮は2007年に改築されたばかりです。
これが神水と言われます。
水占いおみくじです。
石庭です。
さてここから少し歩いて、奥の院へと向かいます。
本宮から約700m上流に向かいます。
奥宮にやってきました。
御船形石です。神武天皇の母である玉依姫命が乗ってきた船が小石に覆われたものとされます。
ここが奥宮です。
帰路につきます。
貴船口駅までバスで向かいます。鞍馬寺から一回りして貴船神社まで参拝できました。
イノダコーヒ三条堺町本店
イノダコーヒの本店にやってきました。
三条へ行かなくちゃ
三条堺町のイノダっていうコーヒー屋へね
あの娘に会いに
なに好きなコーヒーを少しばかり
(高田渡「コーヒー・ブルース」)
金閣・瑠璃光院巡礼
秋の京都巡りを続行していきます。
鹿苑寺金閣
金閣寺は正式名称を鹿苑寺といいます。
もともとは公家の西園寺家の別荘を、室町幕府三代将軍の足利義満が譲り受け、山荘「北山殿」を造ったのが始まりとされています。
義満の時代の華やかな文化を北山文化といいます。
義満の死後、遺言によりお寺となり、鹿苑寺と名づけられました。
世界遺産「古都京都の文化財」に登録されています。それにしても最近は世界遺産も増えすぎて、ありがたみがなくなってきましたね。
さあ、入場していきます。
早くも見えてきました。舎利殿「金閣」です。
一層は寝殿造です。
二層と三層には、漆の上から純金の箔が張ってあります。
二層は武家造。三層は禅宗仏殿造で、三つの様式を見事に調和させた室町時代の代表的な建物と言えます。
現在の金閣は実は1955年の再建。
オリジナルは、1950年に放火によって全焼してしまったのです。金閣の見習い僧による犯行でした。
↓放火前、明治時代の金閣です。金箔は剥げた状態でした。
再建にあたって、義満による建立当初の姿を再現したのでした。
金閣寺事件は、放火犯の母親が列車から保津峡に身を投げるなど、最後まで衝撃的な事件でした。
この放火事件は作家たちの創作意欲をかき立て、三島由紀夫や水上勉らにより小説化されています。
柿葺(こけらぶき)の屋根の上には鳳凰像が輝いています。
鏡湖池に浮かぶ葦原島です。
巌下水は、義満が手洗いに用いたといわれています。
龍門滝です。
八代将軍・足利義政の手洗鉢だそうです。義政は義満の孫です。
夕佳亭(せっかてい)と言われる茶室です。
江戸時代に後水尾上皇のために、つくられました。
この高台から見下ろす、夕日に映える金閣が特に佳(よ)いということから、この名が付けられました。
瑠璃光院
最近、大人気の瑠璃光院に行ってみようと思います。
叡山鉄道の八瀬比叡山口駅から高野川の清流に沿って歩きます。
山門に到着。いよいよ参拝していきます。
もともと別荘として造営されたもので、1万2000坪の敷地に数寄屋造りの建物と日本庭園を有します。
通常は非公開で、春と秋に特別拝観することができます。
これが二階書院です。
写経机に映る紅葉が見どころです。
紅葉の見ごろはもう少し先の感じですが、これでも十分感動的ですね。
瑠璃光院は浄土真宗の支院で、写経をしつつ、美麗な風景を楽しむことができます。
八瀬名物「かま風呂」です。日本式蒸し風呂の原型であり、「八瀬のかま風呂」の現存する希少な遺構です。
一階に降りて、瑠璃の庭です。
数十種の苔のじゅうたんをぬって一条のせせらぎが清らかに流れます。
瑠璃色に輝く浄土の世界を表現しているとか。
臥龍の庭です。
天にかけのぼる龍を水と石で表した池泉庭園です。
【燃えよ剣】壬生寺、屯所、池田屋、新選組巡礼【俺の新選組】
今回は京都の新選組・歴史巡りをしていきます。
壬生寺
この壬生寺界隈には新選組の屯所が置かれていました。
新選組は結成当初、京の人々からは「壬生浪(みぶろ)」と呼ばれていました。
本堂です。この境内で新選組は武芸の調練を行なっていました。
本堂は何度も焼失しており、現在のものは昭和の再建です。
千体仏塔。平成になってつくられました。パゴダというミャンマーの様式です。
水掛地蔵です。
ここは阿弥陀堂で、この地下に新選組資料室があります。
阿弥陀堂を通って、有料エリア「壬生塚」に突入していきます。
新選組は近藤勇を局長として、1863年に結成されました。
近藤は武州・多摩の百姓出身。幼い頃から武芸を好み、天然理心流の道場「試衛館」に入門します。
↓三橋美智也「ああ新選組」の歌碑です。ボタンを押すと歌が流れます。
さあ、ここから壬生塚です。
これが隊士慰霊塔。
彼らは京の町を血風の如く、駆け抜けていきました。
顕彰碑です。
壬生塚は全国から新選組のファンが集まる聖地でもあります。
近藤勇像!
1860年、近藤勇は天然理心流宗家・近藤周斎の養子として、天然理心流四代目宗家を襲名しました。
近藤は武骨で、豪胆な人であったと言われています。口が大きく、ゲンコツを口に入れられた逸話は有名ですね。
1862年、将軍徳川家茂の京での警護のため、庄内出身の志士・清河八郎の呼びかけによって、近藤ら試衛館一派は京に上ることになりました。もちろん土方歳三や沖田総司らも一緒でした。
芹沢鴨と平山五郎の墓です。水戸出身の芹沢たちも清河八郎の求めに応じ、京にのぼりました。
新徳寺です。壬生寺のすぐそばです。1863年、ここの境内で、清河八郎は爆弾発言をしました。「将軍警護は名目で、我々の本当の目的は尊王攘夷の志士となることである」
あくまで佐幕であった近藤一派や、水戸出身の芹沢鴨一派は、清河と袂を分かち、会津藩松平公お預かりの「壬生浪士隊」となる道を選びました。これが新選組の前身となります。
新選組屯所・八木家住宅
壬生浪士隊の屯所の一つがこの八木家住宅です。ここに近藤や芹沢らが投宿しました。
八木家のご子孫が現在は和菓子屋を営みます。
八木邸の見学受付もこちらからです。
ここは新選組ファンにとっては必修ですね。
見学は、ガイドと抹茶、屯所餅付きです。
これが屯所餅。美味しかった!
お店では新選組グッズがいっぱい買えます。
土方歳三の石田散薬ブランドの飴ですね。
この奥が八木邸。残念ながら撮影は禁止です。
この家の奥座敷で、1863年9月に芹沢鴨一派は粛清されました。
芹沢鴨一派は素行が悪く、近藤たちと溝が生まれていました。下手人は土方歳三、山南敬助、沖田総司らであったとされます。
パンフ写真から奥座敷。ガイドさんの話も詳細で楽しかった。部屋に遺った刀痕など見れましたよ。
新選組屯所・旧前川家住宅
こちら旧前川家も屯所として使われました。現在も住宅として使われているため、一般公開はしてないようです。土日祝のみ一部公開して、グッズ販売などしているみたいです。
ここで沖田総司らは子どもを集めて遊んでいたとか。また1865年にこの家の一室で、隊士・山南敬助が切腹をします。介錯は沖田総司。
1864年、この屯所に尊王攘夷派の古高俊太郎という人物が捕縛・連行されます。土方らの徹底した拷問を受けた古高俊太郎は、長州を中心とした尊王攘夷派の挙兵を自白したと言います。幕末史に名高い池田屋事件の始まりです。
池田屋
1864年の池田屋事件は、新選組が一躍名を上げた事件です。なんと現在は歴史居酒屋なんですね!
ここが紛れもない、あの池田屋なんです。
店員さんもダンダラ羽織。
尊王攘夷派のアジトを絞り込めなかった新選組は、近藤と土方の2グループに分け、捜索しました。池田屋には近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助が踏み込みました。
お江戸ル!ホーリーさんだ!
相手は長州、土佐、肥後出身の20余名の志士たち。
吉田松陰の盟友・肥後の宮部鼎蔵など豪傑もいました。
さて大階段盛りを注文してみました。
軍鶏肉、馬刺し、鰹のタタキなどなど。美味なり。
沖田総司は池田屋の激闘の中で、喀血したと言われます。そのためか、新選組の戦力は一時は近藤、永倉の2名だけになります。
そこに土方たちが加勢に加わり、形勢逆転。新選組が優勢になりました。
今宵の虎徹は血に飢えている!!
相手を吹っ飛ばした!!
近藤勇というより車田正美の世界ですね。
この事件をきっかけに、新選組の名は天下に轟きました。激怒した長州は翌月、京に出兵。禁門の変が勃発します。
近江屋跡
河原町のかっぱ寿司前。ここは坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された近江屋の跡地なのです。
大政奉還後の1867年のことでした。
下手人は諸説あり、当然に新選組も疑われました。現在は幕府の見廻組説が有力です。
ちなみに高知県立坂本龍馬記念館では、近江屋が復元されています。
龍馬は刀をとろうとしたところ、頭部を斬りつけられたんですね。脳をやられてしまった。
歴史ファンには新選組も龍馬も、両方ともヒーローです。
嵐山巡礼【天龍寺、渡月橋】
秋の京都を巡礼していきます。
嵐山・渡月橋
嵐山にやってきました。数年ぶりです。
これが観光名所の渡月橋。
すっかり紅葉の季節です。
この橋は桂川にかかります。
天龍寺
天龍寺にも久々にやってきました。
こちらが勅使門です。
天龍寺は足利尊氏を開基とし、夢窓疎石を開山として開かれました。後醍醐天皇の菩提を弔うため1339年に創建されました。
建立のために元冦以来途絶えていた元との貿易を再開、「天龍寺船」を送り、その利益を造営費用に充てました。
明治時代につくられた庫裡(くり)です。方丈とは続いています。
玄関正面の達磨図は前管長である平田精耕の筆によるもので、天龍寺の顔ともいえます。
方丈をぐるり一周りしていきます。
大方丈は天龍寺最大の建築物です。
襖の雲龍の絵は昭和32年に物外道人によって描かれたものです。
曹源池庭園を望みます。
このショットがいいね。
屋根付きの長廊下を進んでいきます。
爽やかなせせらぎ。
ここが多宝殿です。
後醍醐天皇の尊像を祀る祠堂です。
足利尊氏は南北朝で後醍醐天皇と対決する立場になっても、天皇への敬意は失われてなかったんですね。
後醍醐天皇像。ドラマ「太平記」で後醍醐天皇が足利追討令を出したと知った時の、尊氏(真田広之)の「なにいっ!!」という狼狽ぶりは印象的でした。
庭園を散策します。
曹源池庭園を堪能。
天龍寺は幾度となく戦災に見舞われ、焼失と復興を繰り返してきました。
特に応仁の乱や禁門の変で大きな打撃を受けました。
明治・大正に復旧され、現在は世界遺産にも登録されています。
天龍寺北門を出て、嵐山名物「竹林の小径」を行きます。
野宮神社
野宮神社にやってきました。徳島県産クヌギを使った「黒木鳥居」です。
源氏物語にも描かれた神社で、恋愛成就のご利益もあるとか。
どうりで女性が多かった。
野宮じゅうたん苔です。
苔って癒されますよね。
再び竹林の小径を戻ります。
昔は平安貴族の邸宅があったらしいですね。
常寂光寺
常寂光寺にやってきました。ここは山門です。
平安時代より嵯峨野の地は、皇族や貴族の離宮、山荘をかまえる景勝地として有名でした。
常寂光寺境内がある小倉山は、紅葉の名所として親しまれてきました。
仁王門です。
仁王門は本圀寺南門として室町時代に建立されたものを、1616年に移築したものです。
仁王門像は運慶の作と伝えられます。
この石段の下からのアングルがいいんですよ。
本堂です。
金吾中納言こと、あの小早川秀秋によって、伏見桃山城の客殿が移築されたものだとか。
ということは慶長年間のものということですね。
多宝塔です。
この多宝塔は慶長に続く元和の時代の建立とか。やはり江戸初期のものなんですね。
歌仙祠です。明治時代の建立ですが、この中には藤原定家や家隆の像が納められているそうです。
この小倉山荘で藤原定家は小倉百人一首をまとめたとされています。近くに石碑もあるらしいんですが見落としました。
展望台から。
ここは末吉坂。
女の碑です。大東亜戦争の戦災で独り身となりつつも、懸命に生き抜いた無名の女性たちをたたえる碑らしい。
【東京国立博物館】ポンペイ展【平成館】
東京国立博物館にポンペイ展を見にやってきました。
東京国立博物館・平成館
ナポリ国立考古学博物館の至宝が東京にやってきました。
古代ギリシャ・ローマの世界を堪能します。
紀元79年の10月、イタリア半島南部の町・ポンペイをベスビオ山の火砕流が時速100キロで襲いました。
「バッカスとベスビオ山」(62〜79年)
噴火前のベスビオ山の様子を描いた唯一の作例で、フレスコ画です。今の山と随分違います。山頂部が全部吹っ飛ぶほどの強烈な噴火だったのでしょうか?
ベスビオ山の火山灰に埋もれて忘れられたポンペイの町は18世紀に発掘され、空前のブームになりました。
「女性犠牲者の石膏像」(79年)
ポンペイの火山灰の中では、埋もれた遺体部分だけが腐敗消失し、空洞となっていました。
その空洞部分に石膏を流し込み、生々しい犠牲者の姿を再現しています。ポンペイでの犠牲者は1000名くらいではないかと推測されます。
「遺物が塊になったもの」(79年)火砕流の高熱ぶりをうかがわせます。
「フォルム(中央広場)の日常風景」(62〜79年)
ポンペイは人口1万。繁栄を謳歌していました。
「水道のバルブ」(1世紀)
すごい。ポンペイは水道設備が完備され、公共浴場もありました。
「擬アルカイック様式のアポロ」(紀元前1世紀後半)
頭には月桂冠、左手には竪琴を抱える太陽神アポロ。古代ギリシャのアルカイック様式を模しています。
長らく南イタリアはギリシャ人の世界が続いていたので、ギリシャ文化の影響も色濃く残ります。
「食卓のヘラクレス」(紀元前1世紀)
「三美神」(前15〜後50年)
「ウェヌス」(50〜79年)
これはエルコラーノからの出土らしいです。
ポリュクレイトス「槍を持つ人」
ポリュクレイトスによる紀元前450〜440年頃のギリシャ彫刻がオリジナルです。紀元前後のローマン・コピーで、カッラーラ大理石で彫られています。
この作品はポンペイの運動場に埋まっていました。
ギリシャ彫刻のコントラポストは、後のルネッサンス彫刻にも影響を与えました。
ヤマザキマリさんの「テルマエロマエ」第1巻の表紙に使われた作品です。
この手は復元っぽいな。
「ビキニのウェヌス」(前1世紀〜後1世紀)
装身具を表す金彩が残り、確かにビキニっぽいですね。
「ブドウ摘みを表した小アンフォラ」(1世紀後半)
紺青色のガラスに白色ガラスを重ねたカメオ・ガラスです。
「俳優」(1世紀後半)
背後の写真は円形闘技場。ポンペイの闘技場は石造で、ポンペイの人口を超える2万人を収容できました。
「辻音楽師」(前1世紀)
楽しげな日常を切り取ったモザイク画です。
「ヘタイラ(遊女)のいる饗宴」(1世紀)
これもエルコラーノからの出土らしいです。
「エウマキア像」(1世紀初頭)
ポンペイの毛織物業の組合が、業界の保護者であったエウマキアを顕彰するために作った彫刻です。
裕福な女性が商業活動を展開し、市内で力を持っていたことを表します。
「マトローナ(既婚女性)」(1世紀)
「書字板と尖筆を持つ女性(通称サッフォー)」(50〜79年)
女流詩人のような知的な美です。今回、一番気に入った作品かな。
「テーブル天板(通称メメント・モリ)」(前1世紀)
食堂に飾られていたモザイク画です。髑髏は不気味ですが、誰にでも死は訪れる。ならば現世を楽しもうという意味があるようです。古代ローマ人に、キリスト教のような死後の世界は無いんですね。
「炭化したパン」(79年)
ポンペイの窯の中から出土しました。古代ローマ人にとってパンは主食でした。ちぎりやすいよう切れ目が入ってますね。
「三美神のカメオ」(前1世紀〜後1世紀)
「猛犬注意」(1世紀)
訪問者に番犬の存在を示す主題は帝政期に広く見られたそうです。
「アレクサンドロス大王のモザイク」(複製)
ファウヌスの家という豪邸のモザイク床として飾られていた「アレクサンドロス大王のモザイク」の複製が見られます。ナポリの考古学博物館で本物は修復作業中ですね。
これがアレクサンドロス大王。教科書で見たことのあるモザイク。
突き刺されている兵士。
狼狽えるペルシャ王・ダレイオス三世。
馬も必死や。
「踊るファウネス」(前2世紀)
ファウネスの家のアトリウムに置かれた象徴的な像です。
ギリシャ神話のサテュロスを表しています。
サテュロスは酒の神バッカス(ディオニュソス)の従者です。
「スフィンクスのテーブル脚」(前27〜後14年頃)
初代ローマ皇帝アウグストゥス時代のものらしい。
「ネコとカモ」(前1世紀)
これもファウネスの家から出土。
猫ちゃんの可愛さは時代を超える。
「葉綱と悲劇の仮面」(前2世紀末)
「竪琴を弾くアポロ」(前1世紀)
左手に竪琴を、右手にピックを持っていました。
「ペプロスを着た女性(通称踊り子)」
ポンペイ北方のエルコラーノから出土。
エルコラーノの「パピルス荘」という邸宅の中庭から出土しました。女神の群像の一つと考えられます。
「ヒョウを抱くバックス」(前27〜後14年頃)
ポンペイから見て、ベスビオ山の向こう側に位置するソンマ・ヴェスヴィアーナから出土しました。
ソンマ・ヴェスヴィアーナは東京大学のチームが中心になって、発掘作業を進めています。
「ペプロスを着た女性」(2世紀)
これもソンマ・ヴェスヴィアーナからの出土です。
これがミュージアム・ショップ。
炭化パンのグッズが多かったですね。
撮影いっぱいできてよかったです。いつかナポリに行きたいですねえ。
苔寺(西芳寺)巡礼
秋の京都を巡礼していきます。
西芳寺
愛称は「苔寺」と呼ばれています。
往復はがきによる事前申し込みが必要です。2021年からはネットでの事前予約も可能のようです。
さあ、参拝していきます。
参拝料金は3000円で、けっこうハードル高くてなかなか来る機会が無かったのです。
本堂
1969年に再建されたご本堂です。庭園の見学に先立って、この本堂で写経をします。
まず写経セットを受け取ります。ここで筆ペンも貰えます。
写経の経験も今まで無かったので、今までの堕落した人生を洗い流した気持ちになりました。
1300年前の奈良時代、聖武天皇の詔により行基が開山しました。
開山前には聖徳太子の別荘があったといわれています。
1339年に夢窓疎石が臨済宗の禅寺として再興しました。
足利義満や義政をはじめ、西芳寺を訪れて坐禅に励んだ者も多く、後に開山される金閣寺や銀閣寺など、室町時代を代表する庭園の原型になったといわれています。
応仁の乱の時には東軍・細川勝元の陣が敷かれて、1469年には焼失します。
その後、幾度も被災と再建を繰り返します。
現在のような苔に覆われた姿になったのは幕末からだそうです。
1994年にはUNESCOの世界文化遺産「古都京都の文化財」の一つにも登録されました。
庭園
湘南亭です。千利休の次男、千少庵により建立されたお茶室で、国の重要文化財に指定されています。
明治維新の際には岩倉具視がここに隠れ、幕府の難を逃れました。
黄金池は西芳寺庭園の本池となります。
スティーブ・ジョブスも何度か訪れたそうです。和風好きのジョブスならさもありなん。
苔寺を堪能しました。