フィレンツェ芸術巡り②【メディチ家礼拝堂、ピッティ宮殿】
イタリア・フィレンツェの旅行記です。
フィレンツェは小さな町で、徒歩圏内に観光スポットが集中してて楽。メディチ家の礼拝堂に向かいます。
また文化・教養・芸術への理解も深く、ボッティチェリ、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロらのパトロンとなりました。ルネサンス芸術の隆盛はメディチ家抜きでは考えられなかったと言われます。
サン・ロレンツォ聖堂
この聖堂はコジモ・デ・メディチが埋葬されて以来、メディチ家代々の菩提寺(埋葬の場)となりました。レンガむき出しのファサードで「何これ?」って感じですが、設計者のブルネレスキが途中で死去したため、未完のまま終わってしまったのです。後にミケランジェロ設計による再建計画も立てられましたが、実現しませんでした。
コジモ・デ・メディチは「老コジモ」や「祖国の父」と呼ばれるメディチ家の中興の祖です。15世紀に父・ジョバンニが築いた銀行業を受け継ぎ、ヨーロッパ一の富豪に発展させました。また綿密な選挙工作と徹底した政敵排除で、政府をメディチ派で固めていきました。
老コジモはフィレンツェ・ルネサンスの重要なパトロンでもありました。ブルネレスキやドナテッロらを庇護したことで知られます。また自身、エリート的古典教育を受け、数ヶ国語を話したといわれます。古典書籍の収集に異常な執念を見せ、プラトン・アカデミーを主催したことも知られています。まさに超人ですね。
素朴な外観ですが、中身は静謐で優雅な礼拝堂だそうです。(時間の都合で、入らなかった)ここを右手にぐるっと回ると礼拝堂にたどり着きます。
メディチ家礼拝堂
つきました!「メディチ家礼拝堂」です。さっそく入場していきたいと思います。
これがチケットです。
サン・ロレンツォ聖堂に付属する礼拝堂で、ローマ教皇レオ10世の依頼によって造られました。
レオ10世とはメディチ家黄金期を築いたロレンツォ豪華王の次男。メディチ家で初めてローマ教皇に選ばれた人物です。ミケランジェロやラファエロのパトロンとなったり、サン・ピエトロ大聖堂の建設を引き継いだり、文化面での業績が大きい人物でした。一方、サン・ピエトロ大聖堂の建設資金捻出のためにドイツでの贖宥状発行を認め、結果的にルターの宗教改革を引き起こしました。
入り口にはメディチ家の紋章が見えます。
君主の礼拝堂
まず2階に上がっていきます。ここは歴代トスカーナ大公の墓所となります。
高さ59メートルもあるドーム状の礼拝堂の内部です。この礼拝堂は「君主」の名前で分かるように、16世紀にメディチ家が「トスカーナ大公」となり、名実ともに君主となった後に造られたものです。
発案は初代トスカーナ大公・コジモ一世でした。
コジモ一世はシエナを併合したり、フィレンツェの都市改造を行ったりした英雄的人物です。
八角形のドームの内部を飾る宗教画の数々です。
巨大な棺の上にはブロンズの像がのっています。
とにかく床から壁から、大理石や高価な石で埋め尽くされていますね。床にもメディチ家の紋章が。
新聖具室
ミケランジェロ・ブオナローティ「ウルビーノ公ロレンツォの墓碑」
次は「新聖具室」へと向かいます。あのミケランジェロが設計と装飾を手がけた、小さな霊廟です。ここでは二つの墓碑が向き合ってます。一つめはウルビーノ公ロレンツォ・デ・メディチ。真ん中の兜をかぶった男の墓碑です。この人はロレンツォと言っても、有名なロレンツォ豪華王ではなく、その孫ですね。
ウルビーノ公ロレンツォ・デ・メディチ。ミケはこの像に「思索」という題名を与えています。表情はよく見えませんが、うつむきかげんで物思いに沈んだ感じです。実際のロレンツォは粗暴で好戦的だったため、ムダに戦費を負担させられたフィレンツェ市民からは「糞野郎殿」と嫌われていました。
彼はマキャベリが「君主論」を進呈した人物として知られます。もっとも興味も持たず読みもしなかったそうですが。彼はわずか26歳で死去しましたが、死んだ年に生まれた長女カテリーナが歴史的人物となります。カテリーナは後にフランス王妃となり、カトリーヌ・ド・メディシスと名乗ることになります。
ロレンツォの像の前には男女の寓意像があります。女性の方が「曙」です。
「曙」の方の表情は悲しげですね。一番若々しい肉体なのに。
男性の方が「黄昏(夕暮)」です。
おっさんなんだけどムキムキですね。ミケランジェロは終生、男性の裸体美に執着し続けます。同性愛に罪悪感を抱きながらも離れられなかったのです。
こちらサイドは「瞑想的生」を表現しているみたいです。
ミケランジェロ・ブオナローティ「ヌムール公ジュリアーノの墓碑」
もう一つはヌムール公ジュリアーノ・デ・メディチ。この人はロレンツォ豪華王の三男です。
ちなみにこちらサイドは、「活動的生」を表現していて対称の美をなしています。
実際のジュリアーノは政治的野心より貴族的な享楽を好み、フィレンツェの統治者の座もウルビーノ公ロレンツォに譲ってしまいます。
ミケランジェロは、ジュリアーノやロレンツォ本人に似ているかどうかなどは一切無視して、これらの像をつくったそうです。そのため市民からは大変な不興を買いますが、「1000年経ったら似てるかどうかなんて誰もわからない」的な発言をしていたそうです。
ジュリアーノの像の前には男女の寓意像があります。女性の方が「夜」です。出産直後の女性と言われてます。
ミケランジェロは女性像をつくる時にも、男性モデルを使っていたことで知られます。この「夜」も乳房をとってしまえば、普通に筋骨隆々の男性に見えますね。
男性の方が「昼」です。
アンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチの像
入り口付近にある美しい女性の像はまるで観音様。この人は「最後のメディチ」と言われるアンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチ。
18世紀にメディチ家が、トスカーナ大公の座をハプスブルグ=ロートリンゲン家のフランツ・シュテファン(マリア・テレジアの夫、マリー・アントワネットの父)に譲り渡した時の、最後の当主です。
彼女は子宝に恵まれず、またその兄弟にも後継ぎがいなかった(同性愛者だらけだった)ため、メディチ家直系がここで断絶してしまったのです。350年に渡るメディチ家のフィレンツェ支配が終わりを告げた瞬間でした。
しかし彼女は遺言として「家族の協定(パット・デ・ファミーリア)」を残します。これが偉大な決断だったのです。
彼女のこの遺言のおかげで、ルネサンス芸術の至宝がフィレンツェから散逸せずに、現在私たちが目にできるわけです。
こちらはショップです。
この後は徒歩でピッティ宮殿へと向かいます。
共和国広場
途中で共和国広場が見えてきました。
共和国広場の凱旋門は1865年につくられたそうです。
イタリアの国家統一は遅く、ほぼ日本の明治維新やドイツ帝国成立と同時期です。奇しくもこの三国が、後に同盟を組むことになるんだよね。
統一イタリアの首都として、一時はフィレンツェが選ばれていました。(1865〜1871)
真ん中のメリーゴーランドがいい雰囲気ですね。
路上に絵を描くパフォーマーがいました。チョーク・アートっていうのかな。ダヴィデとかボッティチェリとかのすごくうまい絵を描いて、翌朝になると清掃で消されているとか。
新市場(メルカート・ヌォーボ)
ここではフィレンツェ名産の革製品を、気軽に買うことができます。
新市場の横手に「イノシシの像(幸せの仔豚)」があります。1640年頃に、ジャンボローニャの弟子ピエトロ・タッカによってつくられたそうです。
この豚の鼻をナデナデすると、幸せになれるとか。ありがちなパターン。鼻はすり減ってますね。
ヴェッキオ橋
これはヴァザーリの回廊です。ピッティ宮殿とウフィツィ美術館をつなぐ約1Kmの秘密の通路です。
ヴァザーリの回廊は、1565年にコジモ一世が建築家ヴァザーリにつくらせた通路です。メディチ家にとっては、ウフィツィが仕事場で(そもそもウフィツィとは「オフィス」の意味)、そこから住居であるピッティ宮殿への専用通路としてつくらせたんだそうです。この回廊の一般公開は不定期でいつでも見学することはできませんが、たくさんの肖像画が右に左に飾られているそうですね。
ヴェッキオ橋の上も回廊が続いています。
ヴェッキオ橋は1345年につくられたものだそうです。700年も前なんだ。そもそも「古い橋」という意味だそうですよ。
第二次大戦中のドイツ軍との戦いの時に、アルノ川の橋は全て落としてしまったのですが、ヴェッキオ橋だけは歴史的価値を惜しんで落とさなかったそうです。ゲラルド・ヴォルフ大使というドイツ人の嘆願によるとか。どこの国でも歴史や伝統の価値が分かる偉い人はいるんですよね。
ヴェッキオ橋はかつては肉や魚の市場がひしめいていたんですが、悪臭が凄かったらしく、トスカーナ大公の命によって、宝石や貴金属の工房を入れることにしたそうです。
高級そうなお店が並びます。
ヴェッキオ橋の真ん中のあたりに休憩スペースがあります。
この胸像はベンヴェヌート・チェッリーニのものです。ルネッサンスを代表する金細工師・彫刻家です。年老いてから口述の回想録を著し、殺人あり、投獄ありの破天荒な人生を告白したことで知られます。ルネッサンス版の勝小吉かな。
アルノ川をのぞみます。
ヴァザーリの回廊がウフィツィ美術館まで伸びていますね。
ヴェッキオ橋を渡った向こう岸に、フィレンツェ最古の教会の一つのサンタ・フェリチタ教会がありますが、そこにも回廊は続いてるんですね!メディチ家専用のミサが行われていたとか。回廊から降りることなくミサに参加できるのです。
ここにはポントルモの十字架降下の祭壇画がありますね。寄る時間はないけど。
ピッティ宮殿
さあ、ピッティ宮殿に到着しました。
もともとは15世紀に銀行家ルカ=ピッティによって建設が始められた宮殿でした。しかし完成を待つことなく、ピッティ家は没落し、宮殿も建築中断のまま放置プレイされていました。
が、100年後にメディチ家の初代トスカーナ大公・コジモ一世が買い取ることになりました。身体が弱かった妻・エレオノーラのためでした。
で、次第に「公務はウフィツィ」「私生活はピッティ」と使い分けされるようになっていきました。
その後、宮殿の主(トスカーナ大公)はメディチ家からハプスブルグ=ロートリンゲン家に代わりましたが、美術品収集や増改築は約400年にわたって続けられました。
パラティーナ美術館
現在、ピッティ宮殿内にはいくつもの美術館が作られて一般公開されています。特にラファエロのコレクションで名高いのが「パラティーナ美術館」です。
ピッティ宮殿の2階が「パラティーナ美術館」。別名「ピッティ美術館」ともいいます。
これがチケットです。
ここは「控えの間」らしい。演奏会などで使用されてるみたいです。
天井装飾など見事なものです。
いよいよ入館していきます。今回の記事では、彫刻・天井画・室内装飾を中心にレポしていきます。
窓の外にはボーボリ庭園が見えます。これも後で訪れることになります。
バッチョ・バンディネッリ「バッカス」
1549年の作品です。バンディネッリは自称ミケランジェロのライバルとして、作品が物理的に並び置かれることが多い彫刻家です。残念ながら評価は並ぶところまでいかなかったわけですが。
回廊には両側に見事な彫刻がズラリ。
「ヘラクレス」(ローマ帝政時代)
「メルクーリオ」(1世紀)
古代彫刻もかなり修復された形で展示されています。ルネッサンスの頃は発掘した彫刻を、修復や加工したりするのが一般的でした。
「イゲア」(2世紀)
「Satiro e Pan」(2世紀)
「クニドスのアプロディーテ」(1〜2世紀)
「アスリート」(2世紀)
「カスタニョーリの間」です。
ミューズのテーブルというそうです。
よく見ると土台部分にも彫刻があるんですね。
テーブルにはアポロンが描かれています。
天井にもアポロンが!対応しているんですね。
ここは「音楽の間」だそうです。
ここで音楽を楽しんだそうです。
「アレゴリーの間」です。
エミリオ・ゾッキ「若きミケランジェロ」
1862年の作品です。この苦痛の表情は何を意味してるんでしょうね。
天井画はイル・ヴォルテッラーノの手によります。
「ストーブの間」です。
かつてトスカーナ大公の浴室として使用されたようです。
「イリアスの間」です。
古代ギリシャ叙事詩「イリアス」の天井画が描かれています。
「ジュピターの間」です。
ヴィンチェンツォ・コンサーニ「ラ・ヴィットリア」
19世紀の作品です。
「ジュピターの間」の天井画です。
「ヴィーナスの間」です。
アントニオ・カノーヴァ「ヴィーナス」
1804〜1811年にかけて制作されました。ちょうどナポレオン戦争の時代ですね。
カノーヴァは18世紀から19世紀にかけて活躍した大彫刻家です。新古典主義に分類されます。
イタリアだけでなく、メトロポリタン、エルミタージュ、ルーヴルと世界中にカノーヴァの作品が置かれています。
「緑の間」です。
いろいろ「何何の間」とかあるんですけどね。正直こんがらがってますね。日本語のガイドブックがショップで売ってるそうなんで、まずそれを買って参照しながら眺めていくのもいいかもしれません。買っておけばよかったな。