ローマ歴史巡り⑨【パンテオン、サンタンジェロ城】
イタリア、ローマの旅行記です。
パンテオン
パンテオンにやってきました。
パンテオンは現存最古のローマ建築の遺構です。
初代ローマ皇帝アウグストゥスの側近・アグリッパ将軍によって、紀元前25年に建てられたのが最初だそうです。ラテン語でアグリッパ(AGRIPPA)と書かれてますね。
火災によって初代のものは焼失しましたが、紀元118年頃にハドリアヌス帝によって再建されたものが現存しているのです。
2000年近くもほぼ完全な姿を保っていることになりますね。恐るべしはローマン・コンクリートの耐久性です。
パンテオンはセメントやポッツオーリという土地の火山灰を原料としています。丈夫な素材なんですかね?現代のコンクリートは中に鉄筋を入れている分、かえって鉄の腐食で傷みやすいのだとか。
柱は16本あります。太さは4.5メートルあるそうです。
さあ、入場してみます。
クーポラは高さ・幅ともに、約43.3メートル。
直径9メートルの天窓が内部唯一の光源となっています。「パンテオンの目」と言われています。
ドームは上に行けば行くほど軽い構造になっています。
考え抜かれた設計で造られているので、2000年保つんですね。
天窓は日時計の役割も果たしていました。ちょうど正午に正面入口に陽が当たるように作られています。その時間になると、光に包まれながら皇帝アウグストゥスが入場してくる演出になっていたのです。
これがラファエロの墓です。37歳の若さで死去したラファエロですが、死後ここに埋葬するよう遺言しました。
美しい聖母子像を多く残したラファエロにふさわしいお墓です。
これは初代国王ヴィットリオ・エマヌエーレ二世の墓です。
なおパンテオン前では、毎年8月6日と9日に「原爆忌の式典」が行われているそうです。動画を見てみたんですが、軍楽隊による演奏と「折り鶴の少女」をイメージしたバレエ演舞など、きちんとしたものでした。遠いローマで広島・長崎の悲劇を悼んでくれているのは有難いですね。日本の左翼市長や左翼団体に政治利用されて汚染されたアジ式典よりよっぽどマトモだ。
ナヴォーナ広場
もともとは1世紀のドミティアヌス帝の時代に、競技場としてつくられたそうです。すごく細長い広場です。
中央には古代ローマ時代のオベリスク(記念碑)がそびえます。これは旧アッピア街道のマクセンティウスの競技場から出土したものです。
オベリスクを囲むのは「四大河の噴水」です。この噴水はローマ教皇インノケンティウス十世の命によって、ベルニーニが制作しました。(像は弟子の手による)
この四体像はナイル川(アフリカ)、ガンジス川(アジア)、ドナウ川(ヨーロッパ)、ラプラタ川(南アメリカ)を表しています。
ナイル川の像がミステリアスな雰囲気なのは、水源が当時わかってなかったからだとか。
ラ・プラタ川の像です。
何かに怯えた様子ですね??
この像が顔を変なポーズをしている理由は、このサンタニェーゼ・イン・アゴーネ教会によると言われます。この教会の設計はベルニーニのライバル・ボッロミーニでした。
ベルニーニとしては「ボッロミーニがつくった教会なんてすぐ倒れる。それを防ぐために私の像に防御のポーズを取らせてやるんだ」という嫌味のつもりだとか。ただしこのエピソードは事実ではないのです。なぜなら噴水は教会より早く出来ていたから。
こちらはガンジス川の像です。
ドナウ川の像です。
ネプチューンの噴水です。
16世紀に建築家のデッラ・ポルタによってつくられました。
デッラ・ポルタが作ったのは水盤だけで、彫刻は19世紀に付け加えられたものです。
ムーア人の噴水です。
こちらもデッラ・ポルタによって水盤がつくられました。
中央の彫刻はベルニーニの下絵をもとに1654年にアントニオ・マーリがつくりました。
ムーア人ってなんだかわかりませんでしたが、北アフリカの人々のようです。イタリア半島と北アフリカは近いので、いろいろ関わりがあったのでしょうね。
カンポ・デ・フィオーリ広場
ナヴォーナ広場そばの青空市場にやってきました。朝市で有名な市場で、お土産を購入する場としてもオススメです。
野菜、果物、ワイン、オリーブオイルなどさまざまなものが売ってます。
かつてはお花畑だったため、フィオーリ(花)の名前が残ります。また17世紀はじめには、処刑場として使われた暗黒の歴史もあるそうです。
Da Pancrazio
カエサルがブルータスらに刺殺された跡地にある(という説がある)レストランに行って見ました。
確かに雰囲気はある・・。
地下が古代劇場の跡だという噂を聞きました。
なるほどそれっぽいですね。
これがカエサルですね。長いローマ史の中でも最大のスターです。
「賽は投げられた」「ブルータス、お前もか?」などの名セリフで知られる英雄です。
カエサルは紀元前44年、元老院議員どもに散々に刺殺されました。「ブルータス、お前もか・・!」の名場面が再現されてます。
サンタンジェロ橋
最後の目的地はサンタンジェロ城です。ちょっと距離があるのでバスで移動します。
サンタンジェロ橋の入り口です。橋の左側の像は聖ペテロ。右側は聖パウロのようですね。
テヴェレ川にかかるサンタンジェロ橋は、サンタンジェロ城に向かっています。
まさに天国へ向かう橋。
「ローマの休日」ではこの川の水上のお店で、ヘップバーンたちが暴れたんでしたね。
サンタンジェロ橋には、左右に天使像が並んでいます。それぞれ聖遺物を持っています。
これらの天使像は、ベルニーニの工房で作られたものです。ベルニーニ本人が作った二体の天使像だけはレプリカだそうで、オリジナルはサンタ・アンドレア・デッレ・フラッテ教会にあります。
「聖骸布」を持つ天使。
これはキリストが磔刑に処せられた十字架。
これはキリストを突いた槍。
サンタンジェロ城
サンタンジェロ城にやってきました。
サンタンジェロ城は紀元135年、ローマ五賢帝ハドリアヌス帝が自らの霊廟として建設を開始し、139年に完成しました。またの名を聖天使城といいます。
サンタンジェロ城は、内部にも入場できます。
とりあえずてっぺんまで登っていくつもりです。
ローマ歴代皇帝の霊廟として使用されたのちに、中世では軍事施設として使用されました。
14世紀以降は歴代のローマ教皇によって要塞として強化され、また同時に牢獄や避難所としても使用されました。
確かに軍用だね。
1527年の神聖ローマ皇帝軍による「ローマ劫掠(略奪)」の際、ローマ教皇クレメンス七世ら3000人がこの城に立て籠りました。
クレメンス七世はメディチ家出身の教皇。しかし結局は暴虐の限りを尽くす皇帝軍に、なす術もなく降伏しています。
これは聖ミカエルの大理石像。16世紀にラファエロ・ダ・モンテルロが制作しました。
かつてはこの像がお城のてっぺんに聳えていました。
ゴールまでもう少しです。
16世紀のローマ教皇・パウルス三世の図書室です。
グロテスク模様の天井が美しい。ギリシャ神話を題材とした天井画が見られます。
テラスに到着しました。
サンタンジェロ城のテラスからは、ローマの街並みを見ることができます。
城の頂上の「大天使ミカエルの像」を近くから見ることができました。
18世紀に鋳造されたブロンズ像です。これは2代目のミカエル像です。
この剣を鞘に収めるポーズは、ペスト流行の終焉を意味するものとされました。
6世紀末にローマを襲ったペスト大流行の際に、時の教皇グレゴリウス一世がそう意味付けした故事に由来します。
サン・ピエトロ大聖堂が見えます。
大聖堂へは城壁の通路で移動できるのかな?映画「天使と悪魔」では移動してたね。
サンタンジェロ橋が見えます。
パウルス三世は本名がアレッサンドロ・ファルネーゼということから、アレクサンドロス大王など英雄たちを装飾壁画に使っています。
2世紀、ローマ皇帝霊廟時代の模型です。
この窪みの部分にハドリアヌス帝の像が置かれていました。像の大半は失われてしまいましたが、頭部だけはバチカン美術館に現存します。
なかなか見ごたえありました。
サン・ピエトロ大聖堂がまた見えた。
これで観光は終わり。晩ご飯食べて帰国の準備です。
ブォーノ!(うまっ!)
フィウミチーノ空港
いよいよ帰国の朝が来て、ローマともお別れ。フィウミチーノ空港に到着しました。
フィウミチーノ空港は別名レオナルド・ダ・ヴィンチ空港とも言います。
確かにレオナルドっぽいですね。
帰りもフィンランド航空でローマを発ちます。
ヘルシンキ空港
行きと同じくヘルシンキ経由でしたが、なんとヘルシンキは霙が降ってました。
フィンランドはムーミンの国。
ムーミンショップにムーミンカフェもあります。ヘルシンキから乗り換えて、成田へ。
機内で「アメリカン・スナイパー」見て号泣しました。2回目なんだけど。クリント・イーストウッドは、フォードやホークスと並ぶアメリカ男性映画の巨匠ですね。
成田国際空港
成田に戻ってきました。
成田エクスプレスに乗ってみたかったので、使ってしまった。