ローマ歴史巡り①【カラカラ浴場、聖セバスチアーノ聖堂、アッピア街道】
イタリア・ローマの旅行記です。
成田空港
関東豪雨の中、成田にたどり着きました。
いよいよ着陸態勢に。
ヘルシンキ空港
無事ヘルシンキ空港に到着しました。ただしちょっと遅延で、乗り換えまで1時間しかありません。
フィンランドはムーミンの国。
大慌てでローマへの乗り換え便に。
ローマへは3時間ちょっと。もう日暮れてきました。
フィウミチーノ空港
ローマに無事到着。
イタリアといえばエスプレッソ。あまり得意ではないのですが。
ホテル ザ・ビルディング
ここがローマのお宿。
テルミ二駅近くです。
ホテルロビー。
なかなか優雅です。
なかなかいい部屋。明日から気合い入れて観光していきます。
カラカラ浴場
まずはカラカラ浴場にやってきました。
ここが入り口です。
テルメとは公共浴場の意味です。
その名の通り、格安料金で貴族から庶民まで使用出来ました。
ローマ人がお風呂好きだというのは知ってたけど、やたら巨大ですね。一度に1600人収容出来たようです。
紀元216年、ローマ22代皇帝カラカラ帝によって築かれました。カラカラ帝は悪名高き暴君で、圧政をしきました。その報いか、最後は暗殺(部下により刺殺)されています。
これが想像図みたいです。
男女混浴だったそうです。江戸と一緒ですね。
当時の浴場は単なるお風呂でなく、アスレチック施設、図書館、広間なども備える娯楽性の高いレジャー施設であったようです。
サウナ、マッサージ室なども完備。私なら入り浸ってますね。
とにかくこの広大な施設に驚かされる。
225mの長さに185mの幅という規模。
広いだけでなく、壁一面、絵画や彫刻に埋め尽くされていました。
美しいモザイク模様です。
この丸いところに噴水があったんだ。
2000から3000の浴槽を設置できる広さであったとか。
最初は体育室でレスリングで汗を流し、その後、温浴室、熱浴室へと進んでいったとか。冷水プールもありました。
芸人や賭博師、物売りなども巡回し、あらゆる娯楽が存在していました。
こういった娯楽を与えることで、市民の支持を維持する必要があったんですね。
しかし時代が下がるごとに、ローマの公共浴場は売春などの巣窟となり退廃化していきました。6世紀ごろに、公共浴場としての使命を終えたようです。
現在では夏には野外オペラの会場として使われているそうです。
ヤマザキマリさんの漫画「テルマエ・ロマエ」で取り上げられて注目を浴びましたね。
ここがショップです。買いもせず写真だけ撮る奴に、冷たい視線の店員さんw
サン・セバスチアーノ門
ここはアッピア旧街道の起点のサン・セバスチアーノ門です。
3世紀後半に建築され、現在のものは5世紀の再建です。
3世紀、ローマ帝国は頻繁な異民族の侵入に晒されていました。
そこでアウレリアヌス帝の命によって、271年から275年にかけてローマ防衛のための都市城壁が築かれました。
サン・セバスチアーノ門は別名アッピア門とも呼ばれました。
この城壁もネットで囲われてなくて、触れるところがあるんですね。
ローマは観光資源があまりにも多すぎて、遺跡ひとつひとつの管理はおざなりになってるようです。
アッピア街道の第一マイルストーンです。日本風にいうと一里塚です。
ここから旧アッピア街道を進んでいきます。
サン・セバスチアーノ聖堂
ここはサン・セバスチアーノ聖堂です。元は使徒ペテロとパウロに捧げられた聖堂です。後に聖セバスチアーノがここに葬られ、現在の名で呼ばれるようになりました。
意外に小さい聖堂ですが、ローマ七大聖堂に数えられるとか。
聖セバスチアーノは、3世紀のキリスト教迫害の際に殉教した聖人です。ディオクレティアヌス帝の時代でした。
布一枚で矢に貫かれ瀕死の姿で殉教しています。矢に貫かれた体の黒点から、後にペスト(黒死病)の守護聖人としても信仰されるようになりました。
のちに聖セバスチアーノは、ベルニーニっぽい官能的で魅力的な肢体で描かれるようにもなります。ここにある彫刻もベルニーニの弟子がつくったみたいです。
ジュゼッペ・ジョルジェッティ「聖セバスチアーノ」
こういう姿に三島由紀夫も魅せられたんですかね。「仮面の告白」で聖セバスチアーノの絵画に発情する場面が描かれました。セバスチアーノは三島だけでなく、オスカー・ワイルドやテネシー・ウイリアムズら多くの同性愛作家から好んで取り上げられています。
この教会は、17世紀の初めにシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の命令で再建されました。これがシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の礼拝堂。バロック時代のローマのカリスマ貴族で、ベルニーニの初期のパトロンとして知られます。
ベルニーニの晩年の作と言われる「イエスの胸像」です。
地下にはサン・セバスチアーノのカタコンベがあります。カタコンベとは、ローマ帝国に迫害されていた時代の聖人たちのお墓です。
撮影は禁止されています。アップダウンのある地下道が張り巡らされた巡礼地でした。
アッピア旧街道
聖セバスチアーノから少し歩いて、アッピア旧街道の敷石を見に行きたいと思います。
アッピア街道は 紀元前3世紀に築かれた、現存最古のローマ街道で「女王の道」の異名をとります。
マクセンティウス帝の競技場
途中にもなかなかの遺跡があります。
ローマ皇帝マクセンティウスが、紀元306年につくらせた競技場です。
ただしマクセンティウス帝は落成後間も無く死去したこともあって、実際には使われることはなかったそうです。
もう少し歩くとチェチーラ・メテッラの墓があります。
紀元前1世紀のものです。
メテッラとは、第1回三頭政治を行ったクラッススの妻だそうです。
こんな立派な墓におさめられるということは、存命当時の権勢ぶりがうかがえます。
さあ、着いた。アッピア街道のローマ時代のままの敷石です。
敷石は(ポンペイ遺跡で有名な)ベスビオ火山の火山石が使われているそうです。
行こう行こう火の山へ フニクリ、フニクラ、フニクリ、フニクラ〜
経年劣化によってかなりデコボコしていて、かなり足場は悪い印象。足が痛くなりそうです。
「すべての道はローマに通ず」と格言通り、ローマ帝国は欧州中に幹線道路を張り巡らせました。
しかも可能な限り直線にし、道幅も広く平坦な道路を作りました。塩野七生氏はこれらローマの街道を「高速道路」と表現しています。