歴史と文化・巡礼の旅日記

歴史と文化を訪ねる紀行ブログです。

長篠合戦巡り①設楽原決戦場【馬防柵】

JR三河東郷駅

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豊橋から三河東郷にJR飯田線でやってきました。無人駅ですね。

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新城市に属します。しんしろと読みます。

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何の絵かな?

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足軽鉄砲隊のレリーフか!!

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ここは1575年に武田勝頼軍と織田・徳川連合軍が対決した「長篠の戦い」の趨勢を決めた「設楽原の戦い」の土地なのです。

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ここから150m高台に資料館があるので、まずそこに行ってみます。

 

設楽原歴史資料館

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この像は岩瀬忠震(ただなり)。三河の人だったのか。

 

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岩瀬は幕末期の傑出した外交官で、日米修好通商条約締結の実務面で大きな働きをしました。

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しかし井伊直弼に疎まれ、左遷。安政の大獄で永蟄居の処分を受け、44歳で不遇の最期を遂げています。

幕末の外交官・岩瀬忠震の展示から。これは岩瀬忠震使用の印(複製)。

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有能で知られた老中・阿部正弘に目付に抜擢された忠震は、安政期の幕府の外交担当として、手がけた全ての条約を調印にこぎつけました。「日米修好通商条約」です。

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後に島崎藤村も「夜明け前」で、忠震の功績を讃えています。それにしても幕末期においても、幕臣には本当に有能な人材は多かった。岩瀬忠震、川路聖謨、勝麟太郎、榎本武揚、小栗忠順など、人材の厚みは薩長を上回ってますね。幕藩体制下でも近代化は可能だったかもしれません。

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忠震はロシアのプチャーチン、アメリカのハリスなどの、列強のタフな交渉相手の「カウンターパート」として、粘り強く交渉をまとめました。

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ポーハタン号模型。この船上で日米条約が調印されました。この条約はいわゆる不平等条項があったため、後世の批判を浴びましたが、原案はもっと酷いものだったようで、忠震らが精一杯の外交知識で抵抗して、この案に落ち着いたのです。

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ここは鉄砲の展示が多かったですね。こちら西南戦争で使用されたとされる日本最大級の鉄砲。

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最近の研究ではカモを狩る狩猟用という説も出てきたらしい笑

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戦国のエポック・メイキング「長篠の合戦」は三河・長篠城の争奪戦を発端とします。1575年、武田勝頼は1万5千の大軍で長篠城を包囲。

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岐阜城の織田信長は、長篠城救援のために動きます。決戦地の設楽原に馬防柵を作るよう、大量の丸太と縄を準備させます。

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朱塗りの甲冑。いわゆる「赤備え」です。武田の山県昌景ら、大坂の陣の真田信繁、徳川では井伊家が用い、精鋭部隊であることを示します。

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連吾川を挟んで、両軍が対峙し、長篠合戦の決戦が始まります。

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毎年、お盆の時期にこの設楽原・信玄塚では「火おんどり」と言われる火祭りが行われています。

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長篠合戦で倒れた、天正の武人たちの霊を慰めるため、400年欠かさず行われているとか!

 

武田軍の勇将・内藤昌豊(昌秀とも)の墓碑。

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内藤は武田の主要な戦いには殆ど参加した歴戦の勇士でしたが、最期はこの長篠合戦で武田軍が敗走する中、この地に踏み止まり、討ち死にしています。

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連吾川が見えて来ました。

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この川を挟んで、両軍の最後の決戦が始まります。

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設楽原はぬかるみの湿田が広がり、馬を動かせる場所も限られていました。

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設楽原決戦場・馬防柵

ここに織田・徳川連合軍は馬防柵を作ったのです。

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これが有名な長篠合戦屏風絵図。真ん中に見える川が連吾川です。

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信長は、強力な武田騎馬隊に対抗するために、当時の日本では異例の「野戦築城」をしたのです。

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馬防柵の内側から足軽鉄砲隊が待ち構えます。

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信長が準備した鉄砲は3000挺と言われています。諸説ありますが。

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大量の鉄砲で迫り来る武田兵を迎撃します。

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黒澤明の「影武者」の印象が強烈ですが、映画のような瞬殺でなく、8時間もの激闘だったようです。

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また鉄砲三段撃ちの話が有名ですが、その話が出てきたのは実は江戸時代から。後世の創作とする説が強い。

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しかし武田の被害は甚大で、多くの名だたる名将を失います。

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毎年ここでは「設楽原決戦場まつり」が行われ、火縄銃の演武が行われます。

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武田方では、甘利信康もこの戦いで亡くなっています。有名な甘利虎泰の息子です。

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小幡隊は赤備えだったという話ですね。

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山県昌景を弔う山県塚ですね。

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ちょっと高台にあります!

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山県隊は赤備えで、武田軍の中でも精強で知られていました。

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撤退戦の中で、真田隊とともに討ち死にしたとされます。

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馬防柵で弱気と見せて誘い出し、大量の鉄砲を有効に使って武田を制した、信長の見事な戦いでした。

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山県隊の最期の浮世絵!すごい迫力。

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