岡山歴史巡り②【岡山城】
後楽園から引き続いて岡山城へと向かいます。これが岡山観光の黄金パターン。
旭川を越えていきます。
昔来たときは岡山城は遠くで眺めただけで入らなかったので、楽しみです。
旭川のデルタにあるんですね。
岡山城
天守に近づきました。
岡山城を築いた宇喜多秀家時代の石垣です。
秀家は梟雄と言われた宇喜多直家の息子。のちに豊臣秀吉政権の五大老となりました。
六十一雁木門横の石塁です。
宇喜多家没落後の池田氏時代に築かれました。
天守の裏手、下段のあたりに来ました。思えばこれが間違いだった。
段差があってジャンプしたのですが、意外に高さがありました。
つんのめって転倒しました。右肘を擦りむいて、そこそこ深い傷を負いました。
こんな裏手になんか来なければよかったんですが、たまたまこっち側に歩いて行く奴らがいて、何の気なしについて行ったのが運の尽きでした。
不明門(あかずの門)です。
岡山城天守
黒い外壁から烏城(うじょう)とも呼ばれます。もともと国宝でしたが、岡山空襲で焼失しました。アメリカ軍の都市無差別爆撃は、つくづく人類史上に残る戦争犯罪だな。
現在の岡山城は戦後の再建で、コンクリート城です。まず一気にエレベーターと階段で最上階まできました。
金の鯱鉾かっこいい。宇喜多時代は瓦屋根まで金箔で、金烏城とも呼ばれていたとか。マジかね?
宇喜多秀家は関ヶ原で奮闘後、薩摩に落ち延びましたが徳川に発覚。八丈島へと流されました。しかし80を超える長寿で、四代将軍の時代まで長生きしたとか。
関ヶ原の宇喜多没落の原因をつくったのが、有名な金吾中納言・小早川秀秋です。しかし早くして亡くなりました。
江戸時代には池田家が岡山を治めました。
ここは城主の間の復元です。
城内にはショップや食堂もあります。「お福うどん」を食べてみました。こういう安易なネーミングに弱く、すぐ引っかかります。
お福とは宇喜多直家の妻にして、宇喜多秀家の母。「岡山のクレオパトラ」とも呼ばれることになる美女でした。
はじめ三浦氏に嫁いだお福は、三浦氏滅亡後に梟雄・宇喜多直家と再婚。秀家を産みます。直家死没後は、その美貌を豊臣秀吉に見初められ、側室的な立場になったとも言われます。おかげで息子の秀家は豊臣政権における大老職として、57万石の大大名となりました。確かにカエサルからアントニウスと相手を変えながら、上昇していったクレオパトラに似ているところはあるかも。
ここは宇喜多時代の石垣です。
平成になって発見されたそうです。
とんがった石垣が特徴的ですね。
泉水の復元。
月見櫓
岡山空襲を生き残った、江戸寛永期の建築です。
ここは食料の保存庫だったのではと言われます。
予想以上に面白かった。怪我したのは余計でしたが・・
路面電車で駅前に戻ることができます。