歴史と文化・巡礼の旅日記

歴史と文化を訪ねる紀行ブログです。

神戸歴史巡り②【谷崎潤一郎、有馬温泉】

 

倚松庵

「酒蔵の道」の見学を終えて、住吉川と六甲ライナー沿いに10分くらい北上すると、倚松庵(いしょうあん)に到着しました。

倚松庵は、文豪谷崎潤一郎の旧居です。ここで執筆された代表作にちなんで「『細雪』の家」とも呼ばれています。庵号は夫人の名前「松子」さんからとられています。

 

「細雪」は不思議な小説で、事件というほどの事件もなく(例外は阪神大水害ぐらい)、三女のお見合いと四女の半グレ中心に、日常世界が淡々と進んでいくだけなんだけど、やめられなくなる小説なんですねw 下巻なんか朝までかけて一晩で読んじゃった記憶があります。やっぱり美しい文章を味わいながら読むのが快感なんですよね。「源氏物語」みたいだって批評が多いですけど、本当にそう思います。

 

 

「細雪」は何度も映画化されてます。下のは市川崑監督のバージョンです。1983年版です。岸恵子、佐久間良子、吉永小百合、古手川祐子の美女揃いぶみで話題になりました。

 

さて、倚松庵(いしょうあん)ですが、入館料は無料です。谷崎は1936年11月から1943年11月までここに居住しました。実際はもっと南に立地していたそうですが、都市計画で平成の初めに現在の位置に移築したそうです。

 この家は、引っ越し好きの谷崎としては、最も気に入っていた家のようで、7年も住み、出来ればずっと住みたかった家のようでした。

最後は、大家の都合で退去を命じられているのですが、なかなかその指示に従わず抵抗したり、増築代を支払わせることに執着したり、かなり愛着があったようですね。

 さあ入館していきます。

この額の字は、谷崎の(三番目の)奥さんの松子さんの字らしいですね。

 まず1階の応接間(洋間)は、細雪の家族が最も長い時間を過ごす部屋です。

暖炉があるんだよねえ。

応接間の向こうに食堂があります。

 

この食卓は実際に谷崎家の人々が使用していたものだそうです。

 食堂のさらに奥に、「西の部屋」があります。西の部屋は和室です。「細雪」の三姉妹は夏の間、この部屋に涼を求めに来ます。

 和室から見た庭です。「テーブルに庭の風景が映って、これがええんよ」と、管理の女性に言われて、その方の演出に従って、私がテーブルも運ばされて写した1枚ですw 

下手な素人写真ですが「ちゃんと撮れてたら送って」とお願いされてしまったのでw 拙い写真で恥ずかしいんですが、送ることにしました。

 後日、お礼のお手紙をいただきました。実はこの旅行の2日後に「台風21号」が関西を襲うことになります。大変心配していたのですが、大事はなかったとのことで、安心しました。

 

庭です。

 

 庭から家屋を眺めてみました。

 廊下です。

 お風呂。五右衛門風呂ですね。

妙子(こいさん)がラジオを聴くために、戸を開けっ放しにしながら入っていたお風呂ですね。

 台所です。

 奥は女中部屋ですが、今は管理人室として使われています。女中は数人いたのに、3畳の狭さですから、夏場になるとみんな胸まではだけてパタパタやっていたとか。おおらかですね。

電話もある。さすがです。なんでもある。

いよいよ二階へ!

 まずは「幸子の部屋」(『細雪』に登場する次女・幸子のモデル=松子夫人の部屋)です。市川崑版では佐久間良子が演じてました。

 「細雪」の冒頭のシーンはこの部屋から始まります。

 

「こいさん、頼むわ。―――」
鏡の中で、廊下からうしろへ這入って来た妙子を見ると、自分でを塗りかけていた刷毛を渡して、其方は見ずに、眼の前に映っている長襦袢姿の、抜き衣紋の顔を他人の顔のように見据えながら、
「雪子ちゃん下で何してる」
と、幸子はきいた。

 隣が「悦子の部屋」です。悦子は幸子と夫・貞之助の娘ですね。

谷崎の著作の初版本や、阪神大水害などについての展示がありました。

「阪神大水害」とは、1938年7月3~5日、六甲山系の豪雨が土石流を引き起こし、約700人の死亡・行方不明者を出した大事件でした。

「細雪」の作中で、「阪神大水害」の様子が描かれていますが、この倚松庵は無事だったようです。

倚松庵の管理の女性の方から色々話を聞いたのですが、谷崎という人は、抜け目がないというか、慎重というか、安全な立地をちゃんと調べた上で、この家を借りたそうです。

 谷崎の著作集です。

外国語版も出てるようですね。

谷崎潤一郎はかつてノーベル文学賞の候補に何度も名前が上がっています。

結局もらう前に死んでしまったので、貰えずじまいでしたが。(ノーベル賞は存命者のみに授与される)

 もちろん大江健三郎や村上春樹などのほうが、海外で受けやすいであろうことは理解できる。なぜならあの人たちは日本人であることを捨ててるような人たちだから。

 それに引きかえ、谷崎は本物の日本の美を求めて、関西に移住までしたわけですよ。「細雪」の、あの関西言葉の味わい、まろやかで柔らかな「やまと言葉」が外国語に訳せるのか、そして外国人に理解できるのかが疑問でした。

 管理の女性の話によると、意外にフランス人には伝わるらしいですねー。

意外に日本人と共通するものがあるらしいです。

様々な書簡ですね。

 2階いちばん奥が「こいさんの部屋」です。

移築前の屋根瓦だそうです。

棟方志功の挿絵が味があったよなあ。

「細雪」の世界を存分に堪能しました!また読み返してみたくなりましたね。

お土産にうちわをいただきました。

倚松庵を出て、住吉駅に戻ります。

 

東灘区区役所前で「祈りと復興」のブロンズ像を発見しました。

1995年の阪神淡路大震災では、この東灘区を震度7の大地震が襲いました。

1400名以上の死者を出すという悪夢から、復興を遂げたのです。

味わい深い神戸・灘周辺でした。

 

さて住吉駅を離れ、いったん三宮に戻ります。

で、神戸といえば「有馬温泉」ですね。行ったことはなかったので、今回初めて行ってみることにしました。

三宮から市営地下鉄に乗って、谷上駅で神戸電鉄有馬線に乗り換えです。

谷上で乗り換えます。

有馬温泉駅まで30分くらいで着けた。

 

有馬温泉

まずは温泉街を散策します。太閤橋です。太閤とはもちろん豊臣秀吉のこと。

有馬川の流れが変な形で区切られてますが、これはひょうたんの形ですね。

千成瓢箪が秀吉の馬印でした。

ここはゆけむり広場というところです。

ここにありました。豊臣秀吉像。

有馬温泉は、「日本書紀」の昔から名湯として知られていましたが、長く続いた戦国時代に荒廃してしまいました。

 それを再興したのが、豊臣秀吉だったのです。「山崎の戦い」、「賤ヶ岳の戦い」に勝利し、天下統一の地固めに目途がついた1583年、秀吉は有馬を訪れ、長らく続いた戦で疲れた心身を、天下に名高い有馬の名湯で癒そうとしたそうです。その後も秀吉は再三有馬を訪れており、有馬に対してさまざまな援助を行っています。

 特に有馬温泉存続の危機として、「慶長伏見地震」の直後から温泉の温度が急上昇し熱湯となってしまった事件がありました。有馬温泉を愛した太閤秀吉は、大規模な改修工事に尽力し、有馬は無事復活を遂げたのでした。

 

この橋は「ねね橋」といいます。

ねねとは秀吉正室・北政所の事です。

そういえば大河ドラマ「おんな太閤記」では佐久間良子さんが演じていました。今回は奇しくも佐久間良子つながりになりました。

 

温泉街を進んでいきます。土産物屋が並ぶこの通りは太閤通りといいます。

 金の湯

有馬温泉の名湯といえば、「金の湯」ですね。

 太閤泉です。金の湯の前にありました。飲料泉らしい。

 

金の湯はオレンジ色で、濁っていて、身体はまったく見えません。含鉄ナトリウム塩化物強塩高温とのこと。よくわからんが、腰痛にも効くらしいぞ。44度のあつ湯浴槽と、42度のぬる湯浴槽がありました。

「金の湯」のあとは、石段登って「銀の湯」に向かうのが定番です。

これは行基像です。行基は奈良時代の高僧で、有馬に温泉寺を建立した、とあります。

極楽寺です。594年聖徳太子によって創建されたと伝えられます。1996年発掘調査の過程で、豊臣秀吉の湯山御殿跡が発見されたそうです。

太閤秀吉の碑もつくられています。

 念仏寺です。秀吉の正室・北政所の別荘跡と伝えられます。

 銀の湯

「銀の湯」です。温泉街からは少し離れた場所にあります。銀の湯は炭酸泉とラジウム泉の混合だって。無色透明で普通のお湯かよ、と思いましたが、温泉なんだって。

「銀の湯」と「金の湯」の両館共通利用券が850円でした。大変いいお湯だったです。

 御所泉源です。金泉はここから供給されているらしいですね。

帰りはバスで新神戸まで直行(700円)。

そのまま新幹線で帰ってきました。

 

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