歴史と文化・巡礼の旅日記

歴史と文化を訪ねる紀行ブログです。

紀伊半島本州最南端巡り②【樫野埼灯台、エルトゥールル号】

潮岬を観光して、いったん串本駅に戻ってきました。串本駅からはタクシーで紀伊大島に渡り、樫野埼(かしのざき)灯台近辺を見学しました。

トルコ軍艦遭難慰霊碑

いきなり重要なもの発見です。トルコ軍艦遭難慰霊碑です。

1890年トルコ海軍エルトゥールル号が嵐にあい、紀伊大島沿岸で座礁する事件がありました。その悲しい事件を記憶にとどめておくための慰霊碑になります。

トルコの民族系お土産店かな。

トルコ共和国初代大統領ムスタフ・ケマル・アタルテュクの銅像です。

第一次大戦後のオスマントルコ帝国解体後、分割占領状態の祖国解放のために立ち上がり、共和国を建国。祖国の近代化に尽力した偉大な大統領です。

エルトゥールル号事件120年にあたる年に、駐日トルコ大使館から串本町に寄贈されたそうです。

樫野埼灯台

灯台守たちが暮らした旧官舎ですね。

登ってみます。

 

トルコ記念館

トルコ記念館ではエルトゥールル号関連の展示がされています。

エルトゥールル号の模型ですね。

エルトゥールル号館長のアリ・アフメット大佐です。

1890年6月トルコ軍軍艦エルトゥールル号は、皇帝親書と特使オスマン・パシャを乗せて横浜に到着しました。国賓としての待遇でした。

 

大任を終えたエルトゥールル号は、9月イスタンブールに向けて帰国の途につきます。しかし9月は台風シーズンです。今の時期は危険であるからもう少し航海を見合わせるよう、日本側は忠告しました。が、船内でコレラ発生などの問題を抱えていたエルトゥールル号は強行出発をします。それが悲劇を生みます。

これがエルトゥールル号が座礁した船甲羅だ!

この船甲羅は古くから難所として知られていました。エルトゥールル号遭難を知った地元住民は、決死の救助活動を行います。その甲斐あって、69名は救助されましたが、残る580余名の人命が失われました。

 

決死の救助活動を行った近隣住民への感謝状です。

日本中から遺族への義援金が集まり、生存者の帰国には軍艦「比叡」「金剛」が使用されました。

この思いやりがトルコ国民の間に、根強い親日感情を芽生えさせました。(その好感情は、後に日露戦争で日本がトルコの天敵ロシアを倒したことにより決定的になる)

エルトゥールル号には、感動の後日談があります。

1985年エルトゥールル号遭難から95年後のことです。イラクのサダム・フセイン大統領が、「今から40時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機をすべて打ち落とす」と宣言します。イランに住んでいた日本人は、慌ててテヘラン空港に向かおうとしたのだけれど、どの飛行機も満席で乗ることが出来ませんでした。

平和ボケの日本政府はすばやい対応がとれず、多くの日本人がテヘランに取り残されました。

そのとき、一機のトルコ航空の飛行機が到着します。
トルコ航空の飛行機は、日本人216名全員を乗せて、成田に向かって飛び立ちました。
タイムリミットまで、わずか1時間15分前のできごとでした。
このとき、なぜトルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかったのです。後日、元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は次のように語ります。

「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています」

それでテヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。


トルコ軍軍装。

引き上げられたエルトゥールル号遺品です。

トルコ記念館の屋上からも船強羅が見えました。

自然の脅威が引き起こしたこの悲劇に対して、両国が懸命に対処して、友情が芽生えたのです。

樫野埼灯台そばにトルコ料理屋さんがあって「ケバブ」を食べてみました。

さて串本を離れ、次の目的地に向かいます。

とりあえず紀伊田辺に宿をとったので移動します。紀伊田辺周辺で観光の予定はないんですが、翌日に和歌山市内に入りたいので、少しでも距離を稼ごうという意図でした。

あと当日、和歌山市内で多分お祭りかなんかがあってホテル代が異常に高かったんですね、確か。それで手頃な値段でとれた宿が田辺だったんですよ、確か。

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