フィレンツェ芸術巡り⑥【ウフィツィ美術館】
イタリア・フィレンツェの旅行記です。
ウフィツィ美術館
ヴェッキオ宮殿からわずか2分。元々はコジモ一世が「行政機関」としてジョルジョ・ヴァザーリにつくらせたものです。元々は市内各所に分散していた行政組織を集中させる目的がありました。フィレンツェ版霞ヶ関ですかね。ウフィツィとは「オフィス」の意味です。
のちに、コジモの息子のフランチェスコ一世がブオンタレンティに命じて、メディチ家所有の美術作品を収めるギャラリーを設置しました。それが今日の世界的美術館の元となったわけです。
ウフィツィ美術館は、コの字型をしています。円柱はピエトラ・セレーナという青灰色の石材で造られています。
天才芸術家たちがお出迎えしてくれます。
ジョット。ルネッサンスの先駆けとなり、西洋近代絵画の扉を開いた人物です。
ドナテッロ。一般的な知名度は劣りますが、ミケランジェロ、ベルニーニと並ぶ、イタリアの大彫刻家です。
レオナルド・ダ・ヴィンチ。言わずと知れた万能の天才。
ミケランジェロ。言わずと知れた「神の如き」芸術家。
この後、セキュリティチェックして入場です。
これがチケットです。ウフィツィの顔はフィリッポ・リッピの聖母ですか。
ヴァザーリの回廊が見えます。君主家族が警護無しで移動できる利便性がありました。
さあ、いよいよ鑑賞していきます。
廊下も彫刻・絵画・天井画と見どころありすぎです。
天井画のグロテスク模様は、フランチェスコ一世の趣味か。フランチェスコ一世はヴェッキオの秘密の書斎で分かるような妖しさを好みました。
ルネッサンスの先駆者ジョットの1306〜10年頃の作品から。
それまでのビザンチン=ロマネスク様式の絵画は、平面的に(例えば服のひだなどは直線で)描くものでしたが、ジョットは立体的に、陰影をつけ、ボリューム感を出して行ったのです。
人物の目力がすごい。赤子ですら怖い顔してる。
1465年〜1472年頃の作品です。
モデルのウルビーノ公モンテフェルトロは、傭兵将軍で無敵を誇った人物。当時のイタリアの都市国家は常備軍を持たず、戦争の時は傭兵集団を雇い入れていました。この人がなんで横向いているかというと、若い頃の槍試合で反対側の目が潰れてしまったからだそうです。
その奥さんも対になって描かれています。
ピエロ・デッラ・フランチェスカは20世紀になって、再評価が進み、現在では初期ルネッサンスの巨匠という扱いになっています。
1450~60年頃の作品です。
フィレンツェ軍とシエナ軍の間で行われた1432年の戦いを描いています。この作品は三部作になっており、ウフィツィ以外では、ルーブル美術館とロンドン・ナショナルギャリーに所蔵されています。
ウッチェッロは、遠近法にとりつかれた画家でした。一番有名なエピソードは、夜遅くまで遠近法の研究に没頭しているもので、奥さんに「もう寝たら?」と言われたところ、「ああ、遠近法。お前はなんて可愛いんだ」と答えたものです。
1450〜1465年頃の作品と推定されます。
ベールの透明感と物憂げな聖母が特色です。幼きキリストを拝んでいます。モデルは妻となったルクレツィアと言われています。
1440〜1445年頃の作品と推定されます。
リッピは修道士でしたが、女好きのとんでもない生臭坊主でした。リッピのモデルになったルクレツィアも修道女だったから、本来なら許されぬ恋でした。今もフィレンツェの国立公文書館には、リッピを告発する文書が保存されています。
1441〜1447年頃の作品と推定されます。
この物憂げな美貌がリッピの真骨頂です。リッピはボッティチェリの師匠ですね。後にリッピの遺児フィリッピーノが、ボッティチェリに弟子入りし、画家となっています。
頬杖ついてこっち向いてるのがリッピ本人ですね。西洋絵画のお約束で、自画像を描くときはカメラ目線になるという。
さて次は何やら美女画が並んでおりますが。
この下の一番左の絵が、若き日のボッティチェリの作品だそうです。
1470年の作品です。
この作品で認められた25歳のボッティチェリは、すぐに人気作家になっていきます。
1481年頃の作品です。
受胎告知は好んで取り上げられる人気のテーマです。
1470年頃の作品です。
1475年頃の作品です。
聖母を囲む賢者たちは、依頼主のメディチ家の人々をモデルとしています。一番右端のカメラ目線がボッティチェリ本人です。
聖母子の前に跪くのは老コジモ。メディチ家隆盛の中興の祖です。
赤マントの男は老コジモの息子・「痛風病みのピエロ」です。
そしてこれがピエロの息子・ロレンツォ豪華王。メディチ家の黄金時代を築きました。
1482年に描かれた、ルネッサンスの代名詞とも言える作品です。ヴィーナスを中心に、春の到来をことほぐ神々の姿を描いた、という解釈が一般的でしょうか。
ただボッティチェリは晩年は不遇で、没後は忘れられた存在になっていました。これほどの作品がメディチ家の部屋で、400年近く放置プレイされていたのです。19世紀になって再発見され、1980年代に大修復が行われ、現在の美しさを取り戻しました。
足元の植物は粗悪なニスで茶褐色に変色していましたが、修復後は美しく蘇りました。500もの種類の植物は、フィレンツェ近郊に今も実在するものを正確に写したものでした。
1485年の作品です。まさかこの絵を本当に見られる日が来るとは。
ギリシア神話の女神ヴィーナス(アプロディーテー)が、成熟した大人の女性として、海より誕生し出現した様を描いています。
「春」と並んで、古代以来初めての異教神話画が描かれた背景には、当時フィレンツェで高まっていた新プラトン主義の影響がうかがえます。ボッティチェリも、ロレンツォ豪華王の主催する知識人アカデミーの一員だったのです。
女神のモデルは、フィレンツェ一の美女と謳われたシモネッタ・ヴェスプッチでした。シモネッタはこの作品が描かれる数年前に早逝していますが、ボッティチェリはその面影を忘れることが出来なかったのかもしれません。
なんと目が不自由な人のための立体版?までが!
1482年〜1483年に描かれた作品です。
この作品も「春」と同じ部屋で放置されていました。理性を表すパラス(女神ミネルヴァ)が本能のままに行動するケンタウロスを戒める、というテーマとされます。
1483年〜1485年に描かれた作品です。円形(トンド)形式の作品。
天使が聖母子を祝福します。
この書物に「マニフィカト(聖母を讃える歌)」が書かれています。
1487年に描かれた作品です。これもボッティチェリのトンドの代表作です。
物憂げな聖母は定番の表情ですが、周りの天使たちも優美で、中性的な魅力に充ちています。女でもゴツい男にしてしまうミケランジェロと対照的です。
幼きキリストが持つザクロは「復活」の象徴とされます。
1466年〜1467年に描かれた作品です。
1489年〜1490年に描かれた作品です。
1487年〜1488年に描かれた作品です。
1475年に描かれた作品です。
1489年〜1490年に描かれた作品です。
サヴォナローラの神権政治が始まると、ボッティチェリはもろに影響を受け、それまでの生命感溢れる画風は消え、神秘主義的な作品を描くようになります。サヴォナローラの扇動に乗って、かつての自作を焼き捨てたとも言われます。(虚栄の焼却)
ボッティチェリは晩年、筆を折り、杖をついて徘徊する惨めな最後を過ごしたそうです。
1486年に描かれた作品です。
1470〜1475年に描かれた作品です。
このすごい装飾の部屋は「トリブーナの間」と言われます。
16世紀後半、コジモ一世の息子・フランチェスコ一世がブオンタレンティに命じて、造り上げた部屋です。
円蓋は無数の真珠母、床は色大理石の特別陳列室です。
修復中だったのでしょうか、入室はできず外から見るだけでした。
真ん中に見えるのが「メディチのビーナス」です。
紀元前1世紀頃のヘレニズム時代の作品。恥じらいのヴィーナスの定型となったんですね。ちょっと遠かったんでぼやけてしまって残念でした。
ボッティチェリのヴィーナスも同じポーズしてますね。ただしこのヴィーナス像がローマで発見され、メディチ家のコレクションになったのはボッティチェリの時代から100年後なので見ていないはずです。
ウフィツィ美術館がコの字型っていうのがよくわかりますね。
なんという痛そうな彫刻だ。
ヴェッキオ橋とアルノ川が見えますね。
1472〜1475年ごろの作品です。
ヴェロッキオはレオナルド・ダ・ヴィンチの師匠ですが、この天使と背景の一部はダ・ヴィンチが描いているそうです。ヴェロッキオはダ・ヴィンチの絵を見て、完全に自分を超えていると感じ、以後は彫刻に専念したという伝説があります。風景もダ・ヴィンチっぽいね。
1472〜1475年ごろの作品です。
聖母の美しさ、書見台の細かな描写など、さすがですね。
大天使ガブリエルがマリアに処女懐胎を伝えにくる場面。あらゆる画家がテーマとした場面です。
この作品がレオナルドの真筆である確かな証拠は、何一つ見つかってないそうなんですが、類を見ない作品のクオリティから疑う者はいないそうです。
1481〜1482年ごろの作品です。
1506年ごろの作品です。
この三角形の画面構成力を、ダ・ヴィンチから学んでいるそうです。
1507年ごろの作品です。
ミケランジェロが描くと絵画も立体的になりますねえ。飛び出してきそうです。さすが本業は彫刻家です。背景の裸体群像は、異教徒たちという説もあります。
1506年〜1507年ごろの作品です。
これ上と下が夫婦です。ラファエロ唯一の夫婦肖像画。このドーニ夫妻は一つ前のミケランジェロの「ドーニのトンド」を注文した裕福な羊毛商です。
1506年〜1507年ごろの作品です。
こっちが嫁ですね。この目つきがいいね。意地悪なモナリザっていう感じです。生粋のフィレンツェ人は怜悧で眼光が鋭い人が多いそうです。観光でちょっと行ったぐらいではよく分からなかったけど。
この女性は大銀行家の娘らしく、羊毛商と金融業という、これまたフィレンツェらしいカップルなのです。この夫婦肖像はピッティ宮殿にあるはずなのですが、なぜかウフィツィ美術館にありました。
テラスがありました。ここで一休みできます。この下の階にはトイレもあります。
ヴェッキオ宮殿が間近に見えますね。
この突っ立てるおっさんの像は何の意味があるんですかね?
幸せの仔豚のオリジナルがあった。ここからは彫刻作品を見ていきたいと思います。
本物のラオコーンはもちろんヴァチカンに。で、2018年の「ミケランジェロ展」で来日したものとは違うようです。
廊下の彫刻は、古代彫刻も多いのですが、欠損部分をルネサンス期以降に修復したものがけっこうあるそうです。
1559年の作品です。正面写真が痛恨のピンボケです。
1571年〜1574年頃の作品です。
古代彫刻とルネッサンス彫刻が混在してもほとんど違和感ないですね。
ウフィツィ美術館は3階から古い順に展示されています。この後は下の階に移動して、盛期ルネサンス以降の作品を鑑賞していきます。
1518年の作品です。
ここからはルネッサンスの影響を受けながら、新しい展開を見せる作品群です。マニエリスムに分類される画家たちの作品です。フィオレンティーノのこの作品は、発表当初はあまり評判が良くなかったそうですね。発注者から受け取りを拒否されたそうです。四聖人があまりにみすぼらしいとか、聖母も厚化粧な感じがするとか。
1529年の作品です。
この聖母の不安げな顔!来るべきイエスの受難を恐れる表情が表れています。ヴァザーリによると、ポントルモは孤独な人物で、極度に死を恐れる人物であったそうです。
1545年頃の作品です。
病弱で、肺病により若死にすることになるエレオノラ公妃の公式肖像画。コジモ一世の正妻です。元はスペイン貴族の娘で気位が高く、夫以外には冷たい面をみせた人物だそうです。
お気に入りだったブロンズィーノが、彼女の冷たい美を永遠のものとして描き出しました。
1543年〜1546年頃の作品です。
旦那の方ももちろん描いています。初代トスカーナ大公で、現在のフィレンツェの都市計画の基礎を固めた偉大な人物です。ただし晩年は半身不随になり、不遇であったとか。
1540年〜1541年頃の作品です。
フィレンツェの政治家・バルトロメオ・パンチャティキの妻です。エレオノラ大公妃もそうですが、なぜか冷たい表情ですね。
1535年頃の作品です。
マニエリスムを代表する傑作1枚です。極端な遠近法や、引き伸ばされたりねじれたりする人体描写など。伸び切った子どもの身体はすごいですね。死体かな笑
1515年〜1520年の作品です。
ヴェネツィア派最大の巨匠・ティツィアーノの代表的単身像。
1565年〜70年頃の作品です。
17世紀のフェルディナント二世統治の時代に、ヴェネツィア派の作品の多くが収集されました。
1538年の作品です。
師匠ジョルジョーネの「眠れるヴィーナス」を補完完成させた25年後に、決定的な裸婦像を完成させました。後世の裸婦像の定型となる、永遠の女性美を創り出したと言えるでしょう。
この傑作は17世紀に、メディチ家のフェルディナント二世とヴィットリアとの婚姻の際に、ヴィットリアの持参金代わりにフィレンツェにもたらされました。
1529年の作品です。
この顔はまさに教科書で見たルターの顔ですね!クラーナハはザクセンのヴィッテンベルクで活動していましたが、ヴィッテンベルク大で教鞭を取っていたマルティン・ルターとは友人でもありました。ルターはローマ・カトリック教会の腐敗に憤慨し、聖書のみに従う宗教改革を唱えます。本来なら結婚出来ないはずの修道士(ルター)と修道女(ルター妻)が公然と婚姻し、夫婦の肖像まで発表することは、「聖書には結婚するな、なんて書いてねえ!」という強烈なプロテスト(抗議)の意味がありました。
1528年の作品です。ちょっと暗すぎた。撮影失敗です。
クラーナハの官能美は独特の魅力がありますね。
1570年の作品です。
1588年の作品です。
レーニの師匠のカラッチは、北イタリアのボローニャを中心に活躍し、初期バロック様式を確立しました。ふくよかな肉感が時代を表しています。
1597年の作品です。本物の楯に描いているのは迫力あってすごい!
パラティーナにもウフィツィにもカラバッジョ作品が存在するのですが、これらはカラバッジョのローマでのパトロン・デルモンテ枢機卿からトスカーナ大公・フェルディナント一世(コジモ一世の息子でフランチェスコ一世の弟)に贈られたものではないかと思われます。
1597年〜1598年の作品です。
美少年と果物はカラバッジョの得意技。
果物の描写もいいですねえ。カラバッジョはミラノでの修業時代、北方絵画の細密なタッチを身につけたといいます。
1603年の作品です。
神の意志に従い、自分の息子を殺そうとするアブラハムと、「やめてくれ〜〜」みたいな息子イサクの表情から緊迫感が伝わってきます。
1620年頃の作品です。
カラバッジョの影響を大きく受けた女流画家・ジェンテレィスキの作品ですが、まさに切ってる最中で血が噴き出してる!怖い。この暴力的な作風は、彼女の暗い過去(レイプ被害)に根ざしていると思われます。「絵による復讐」と言われました。
栄光と挫折を知った男の渋みが出てますね。
一方、栄光に包まれっぱなしの男の自画像は余裕ある?1628年頃の作品です。
ルーベンスはフランス王家に嫁いだマリー・ド・メディシスの連作(ルーヴル所蔵)を描くなど、メディチ家との繋がりはあります。マリー・ド・メディシスは、このウフィツィを美術館化したフランチェスコ一世の娘なのです。
1626年〜1634年頃の作品です。
優雅なルーベンス美女が、ぽいっと捨てるところが何かおかしくていいですね。このあっさり感はジェンティレスキとは全然違う。
1626年頃の作品です。
彼女はルーベンスの最初の妻でしたが、ペストによりわずか34歳で早逝しています。
1605年頃の作品です。
レーニはラファエロみたいなものもあれば、こういったカラバッジョみたいなものもありますね。
1635年〜1640年頃の作品です。
ちょっとしたショップもありました。この階下にはもっと大きなショップもありました。けど、そこで間違って「緊急出口」の扉を開けてしまって大サイレン鳴らしてしまい、全員の注目を浴びてしまったので、早々に退散(脱出)しました。
外では成りきりアートの大道芸人のおっさんがいた!
世界的名画をいっぱい見ることが出来ました!
フィレンツェ芸術巡り⑤【シニョーリア広場、ヴェッキオ宮殿】
イタリア・フィレンツェの旅行記です。
Ristorante Lorenzo de' Medici
昼食してから午後の観光へと。
やっぱりパスタが定番です。
ジャガイモうまい。
スイーツ系も充実。こっちは朝からケーキ食いますからねえ。糖尿にならないんでしょうか?
欧州のミネラルウォーターは炭酸入りのものが多いようで慣れてないので、炭酸抜きをもらいました。ガス入りも慣れればうまいらしいんですけどね。炭酸抜きの水には「ベビーマーク」がついているようです。ガキ扱いか。
このあとはヴェッキオ宮殿へと向かいますが、その前にフィレンツェ名所を外観だけでも通っていきます。
ここは有名なオルサンミケーレ教会。元は小麦市場兼礼拝所だったとか。
ギベルティやベロッキオなど、名だたる彫刻家の彫像(レプリカ)が飾っています。
詩人ダンテの家を外観だけ見ていきます。
ここがダンテ生誕の地ですが、建物自体は1900年頃の再建だそうです。中はダンテ関連の博物館になっています。
地べたにダンテの顔が。
ダンテの胸像も。
広場が見えてきました。シニョーリア広場です。
そして巨大な全貌を表すのはヴェッキオ宮殿です。
ヴェッキオ宮殿は1299年から建設が始まりました。もともとフィレンツェ共和国の政庁舎として使用されていました。
一時、コジモ一世が住居として使用していたこともありました。
その後、コジモ一世が住居をピッティ宮殿に移したことで「ヴェッキオ宮殿」と呼ばれるようになりました。ヴェッキオには古い、という意味があります。
なんと現在も市庁舎の役割を一部担っているとか。
ヴェッキオ宮殿に入る前に、シニョーリア広場の彫刻群を見ていきたいと思います。
シニョーリア広場
1594年に建てられた像です。コジモ一世は1537年にフィレンツェ公、1569年には初代トスカーナ大公となり、それまで立場上は有力な富豪市民だったメディチ家を、名実ともにフィレンツェの支配者とした人物です。
コジモ一世は明敏な頭脳、冷酷な決断力を持ち、マキャベリ的絶対君主の資質を持っていました。内政ではメディチ家への権力集中、法制度の整備、産業振興などを進め、外交では神聖ローマ皇帝の警戒を掻い潜りながらトスカーナ各都市の領有化を進めました。
「広場の噴水」ですが、今は工事中のようでした。アンマナーティ「ネプチューン」だけは見えますが。
この噴水は1563〜1565年に造られました。もともとはバンディネッリに依頼された仕事だったそうですが、バンディネッリの死去に伴い、弟子であったアンマナーティに引き継がれたそうです。
コジモ一世は1562年、フィレンツェ海軍を創設しました。1571年にはオスマントルコとのレパント海戦に参戦して功績をあげています。この像にはフィレンツェの海軍力を示す政治的メッセージが込められていました。ただし「白い大男」と呼ばれ、市民の評判は良くなかったようです。
ヴェッキオ宮殿前のロッジア・ディ・ランツィです。ここはかつて外交式典などの政治の場だったそうです。
今は彫刻の傑作群がひしめきます。
ロッジアの左端はチェッリーニ「ペルセウス」です。ギリシャ神話の英雄ペルセウスが魔物のメデューサの首を討ち取るところ。にしても凄惨な作品ですね。
魔物とはいえ、女の首を掲げて身体を踏み潰しています。
この作品の依頼者はコジモ一世。コジモは冷酷非情な面を持ち合わせており、己の威厳を見せつける意図があったようです。
チェッリーニは1545年から1554年までかけて、大変な苦心をしてこの作品を完成させています。ブロンズの鋳造には何回も失敗しているそうです。
ちなみにこの台座もチェッリーニによるものですが、レプリカであり、オリジナルはバルジェロ美術館にあります。
コジモ一世はヴァザーリ、チェッリーニ、ブロンズィーノの3人を特に重用し、メディチ家の栄光と威厳をプロパガンダしていきました。
現在フィレンツェ の街並みを飾る、壮麗な建築、モニュメント、装飾はコジモ一世の時代に造られたものが多いのです。
ロッジアの右端はジャンボローニャのこの作品です。1579年から1583年にかけてつくられました。ローマ建国神話を題材としています。
アカデミア美術館に石膏版がありましたけど、こちらは大理石です。
この3体の絡み合いが躍動感ありますね。マニエリスム彫刻の傑作です。
これはコジモ一世の息子のフランチェスコ一世の発注だそうです。メディチ家の統治が安定したために、「ペルセウス」のような威圧的で政治的なテーマから、躍動的で自由なテーマに時代の要求が変化していったのかもしれません。
ジャンボローニャはその名前からボローニャ出身と思われがちですが、イタリア人ですらありません。フランドル人です。
フランチェスコ一世のお気に入りの彫刻家でした。
その隣もジャンボローニャです。1599年の作品です。
これは比較的新しく1865年につくられています。
ロッジアの奥には5体の女性像が立っています。
ヴェッキオ宮殿の入り口には、対の像がありますね。
もちろんレプリカで、本物はアカデミア美術館にあります。
もともとはこの政庁舎前の位置に置かれていたんですね。しかし暴動による損壊(実際に左腕が破壊されたことがある⇨ヴァザーリが修復)や、風雨による劣化を避けるため、1873年にアカデミアに移動しました。
「ダヴィデは青空の下に置かないと意味ないの!」と言ったミケランジェロの気持ちがわかりますね。
このレプリカは1910年から置かれているそうです。レプリカって言っても100年の歴史があるのはすごい。
1525〜1534年の作品です。
「ダヴィデ」が賞賛の嵐だったのに対して、こちらの作品は不評で「大きなジャガイモ袋」と揶揄されました。芋くさい、野暮ったいという印象だったんですかね。
バンディネッリはミケランジェロを勝手にライバル視して牙をむいた、とされます。バンディネッリは「狂人よりも不安定な頭脳の持ち主」と揶揄される、アブナイ人でした。
この作品を注文したのは初代フィレンツエ公・アレッサンドロ・デ・メディチでした。コジモ一世の前にもフィレンツェ の領主となった人がいたんですね。ただしアレッサンドロは粗暴な若者で人々から嫌われ、最後はあっさり暗殺されてしまいます。アレッサンドロの後継として連れてこられたのが、遠縁の17歳の若者・コジモ一世だったのです。
ヴェッキオ宮殿
「ヴェッキオ宮殿」へと突入していきます。高さは95メートル。
ピエトラ・フォルテという砂岩の切り石で積み上げられています。
入場していきます。
まずは「中庭」がありました。中庭までは入場券なしで入れます。
中央にはヴェッロキオ「イルカを抱くキューピット」(レプリカ)の噴水があります。
柱の装飾がきめ細かいですねえ。
これは1565年にトスカーナ大公となったメディチ家のフランチェスコ一世(コジモ一世とエレオノーラ・ディ・トレドとの子)が、オーストリア(ハプスブルク家)から妃を迎えるにあたって箔をつけるため?細やかな装飾を求めたものという理由があります。
息子フランチェスコ一世の結婚式は、コジモ一世治世における最大のイベントとして、壮大壮麗に挙行されました。
この中庭はミケロッツォが15世紀後半に設計しました。
中庭からちょっと外へ出てみると「ヴァザーリの回廊」が!このままウフィツィ美術館へと続いています。
ヴェッキオ宮殿には「秘密の間(秘密の通路)」と呼ばれる隠された部屋や通路がありますが、4ユーロで「秘密のツアー」に参加することができます。「秘密のツアー」で最初に見せてもらえるのは、13〜15世紀にフィレンツェの行政高官が着たという服の復元です。あのダンテも行政高官になっていた時期があったらしいから着ていたのかも。
さあ、いざ秘密のルームへ。
妖しさ満点です笑
ガイドの女性はスペイン人だそうです。
狭い通路を通り抜けてたどり着いたのは「フランチェスコ一世の書斎」でした。フランチェスコ一世とは、初代トスカーナ大公・コジモ一世とエレオノーラの子で、トスカーナ大公を世襲しています。装飾に埋め尽くされたこの部屋は、ヴァザーリによって設計されました。
コジモ一世の肖像です。
反対側にはお母さんのエレオノーラ。
小さいながらも、ギリシャ神話モチーフの絵が並んでいて、華やかな空間です。
フランチェスコ一世は親父のコジモ一世とは違って、陰鬱、自己中心的で、およそ統治者には向かない性格でした。怪しげな化学実験や錬金術に凝ったと言われます。
確かにどこか妖しい小部屋です。
絵の裏には、隠し戸棚・隠し扉などがあります。権力者はどこの国でも一緒ですね。
共和政時代はここで市民会議が開かれていたそうです。イタリアで一番大きい、長さ54m、幅23m、高さ18mの広間です。
天井画も1枚1枚すごいですよ。この天井装飾もコジモ一世の息子フランチェスコ一世の結婚式のために造られました。
制作はまたもヴァザーリの工房。しかもわずか2年で造り上げたのです。ヴァザーリの仕事の速さは、まさに「美術官僚」と呼ぶに相応しいものがあります。
中心の「コジモ一世の礼讃」ではコジモが「新しきアウグストゥス」として神格化されています。
「秘密のツアー」ではこの天井の、さらに屋根裏まで見せてくれます。
天井画の1枚1枚はなんと吊り下げてたんですね。
こんな仕組みだったとは。
模型を使って、ガイドさんが仕組みを説明してくれました。
五百人広間の左右には巨大なフレスコ壁画が見られます。これらはヴァザーリの工房によって制作されたものです。壁画も天井画も、ヴァザーリの工房によるもので埋め尽くされています。
が、もともとは右側をレオナルド・ダ・ヴィンチ「アンギ・アーリの戦い」が、左側をミケランジェロ「カッシーネの戦い」が飾る予定でした。
1503〜1504年のメディチ家追放時のピエロ・ソデリーニ政権の時でした。このヴェッキオ宮を舞台に、ダ・ヴィンチとミケランジェロ、天才同士の世紀の対決が行われたのです。
この二人は20歳以上も年が離れていながらも、例の「ダヴィデ設置場所事件」で対立し、険悪な関係でしたから、この対決は空前の注目を集めました。しかし結局どちらも未完に終わってしまいました。
下に降りてじっくり見てみることにします。
こちらが左側の壁画「ピサとの戦い」。「ピサの戦い」は共和国時代に戦われ、14年もの長期戦となった苦しい戦いだったそうです。
こちら側をミケランジェロ「カッシーネの戦い」が飾る予定でした。ミケランジェロにライバル心を燃やすバンディネッリ(ジャガイモ袋の彫刻の人)によって、破壊されたなんて伝説もあるそうです。
こちらが右側の「シエナの戦い」。こちら側をレオナルド・ダ・ヴィンチ「アンギ・アーリの戦い」が飾る予定でした。
この絵には小さく「CERCA TROVA(探してみなよ、きっと見つかるから)」という言葉が書かれているそうです。これはヴァザーリによるメッセージで、何かが隠されているんじゃないかと言われていました。近年の調査で、この右側の壁画が二重構造になっているということが判明しました。現在わかっているのはそこまでらしいんですが、もしかするとこの絵の下にレオナルドの未完の作品が眠っているんではないか?と世界の美術ファンのロマンをかき立てています。
14年もの苦戦となった共和国時代の「ピサの戦い」と比べて、コジモ一世時代の「シエナの戦い」は14カ月で勝利した会心の戦いでした。この対比は前者と比べて、コジモ自身の優位を誇示する政治的目的があると見られています。
ここがステージ。
ステージに上がってお偉いさん気分になってみました。彫刻もいっぱいありますね。
ミケランジェロ・ブオナローティ「勝利」
しれっとミケランジェロの「勝利」がありました。
1532〜1534年にかけてつくられた作品とされます。若者がおっさんを組み敷いていますね。「シエナの戦い」の壁画前に置かれていることから、トスカーナ大公のシエナに対する勝利を暗示しているのでは?と推測もできます。
ミケランジェロの反対側の壁画「ピサとの戦い」の前には、ジャンボローニャ「ピサを征服したフィレンツェ」のレプリカが飾られます。オリジナルはバルジェロ美術館にあります。
その他にも素晴らしい価値のある彫刻がゴロゴロあります。古代ローマ彫刻が4点、近年修復作業を終えて公開されています。
16世紀以降の修復がかなりなされているようです。ルネッサンス当時は、破損部分を修復して展示するという考えが主流でした。
これは「ヘラクレスの間」にある「聖母子と洗礼者ヨハネ」(作者未確定)のトンドです。
この作品は別名「UFOの聖母」と言われます。
確かに拡大してみると、聖母の右上空に未確認飛行物体がありますね。それを人が見上げてる。面白い。
これはレオナルド・ダ・ヴィンチ「アンギ・アーリの戦い」の模写です。無名画家によって描かれたそうです。
緑の間はコジモ一世の妃エレオノーラ・ディ・トレドの書斎として使われていたとか。この絵はボッティチェリの工房によるものだそうです。
天井装飾がすごいですね。ギルランダイオの手によるものだとか。
ここがエレオノーラの礼拝堂です。緑の間とつながっています。
アーニョロ・ブロンズィーノ「十字架降下(ピエタ)」
礼拝堂の天井画はブロンズィーノ「ライオンと聖ヒエロニムス」です。
ブロンズィーノは、ウフィツィ美術館にあるエレオノラの肖像も描いていますね。エレオノラのお気に入りの画家でした。
フィレンツェを舞台にしたミステリー映画「インフェルノ」では、重要な鍵を握る暗号が隠されている設定になってました。
メディチ家追放時代のピエロ・ソデリーニ時代につくられた礼拝堂だそうです。
共和国時代は総督の会議や法廷として使われていたとか。
天井装飾はすごい。
コジモ一世の命により、サルヴィアティ「マルコ・フーリオ・カミッロの物語」が描かれています。
当時の友好国フランス王家のシンボルである百合が、あちこちにぎっしりとひしめいています。
天井にも百合の装飾が見えますね。
ドナテッロ「ユーディットとホロフェルヌス」
百合の間にはすごい彫刻が何気に置かれています。
ユーディットがホロフェルネスの首を、今まさに落とさんとする瞬間を描いています。ミケランジェロのダヴィデが来る前に、ヴェッキオ宮殿入り口に置かれていた作品がこれ。最初はメディチ邸の中庭にあったそうです。
最後は「地図の間」。壁に53枚の地図が飾られています。
イギリスはかなり正確ですね。
イタリアはちょっと短足かな?
GIAPANとあるのが日本でしょうか。
マルコ・ポーロの「東方見聞録」で紹介されて以来、黄金の国ジパングの名はヨーロッパで知られていたようです。
ヴェッキオ宮殿に別れを告げます。
フィレンツェの治安と街並み
さて日が落ちるまで少し時間があるので、ぶらり街歩きしていきます。馬車にも乗れます。日本の観光地の人力車みたいなもんですかね。
フィレンツェは治安は良く、危ないと感じる場面はありませんでした。ただ「お恵みを〜」みたいに弱々しく近づいてきたジプシー風のおばあちゃんは見かけました。でも無視しましたけどね。一見弱々しい感じでしたが、離れた場所ではけっこうキビキビしてたので、同情を買う演技だったんでしょう。
後はサンロレンツォ教会の前で、若い女の子が「エクスキューズミー!」と話しかけて来ました。これもジプシーの女の子のスリ。日本人に話しかける目的は一つ。とにかく無視が一番いい。たとえ日本語で話しかけられても振り返らない。(咄嗟だと反応しちゃうんですけどね)
またフィレンツェでは路上で(チョークアートのパフォーマンス)でなく、普通の紙に地べたで絵を描いてるのがいます。間違ってその絵を踏んじゃうと、弁償しろ!とか難癖つけてくるのがいるようです。見かけたら踏まないことです。
土産物屋さんも様々です。さすが観光大国。
彫刻もダヴィデの小さいやつをお土産で買っちゃいました。これ全部欲しかった。
ボッティチェリのエプロン笑
ダヴィデのエプロン笑
Gelateria Carabe
イタリアに来たらジェラート!アカデミア美術館そばのジェラート屋さんに入ってみました。
「フィレンツェで一番美味しいジェラート屋さん」だとか。こういうのは言ったもん勝ちですね。
味は好きなものを2種類組み合わせて選びます。
長椅子があって、そこで食べていけるようになっています。
フィレンツェ芸術巡り③【パラティーナ美術館・ボーボリ庭園】
イタリア・フィレンツェの旅行記です。
「ピッティ宮殿」へと向かい、「パラティーナ美術館」を堪能しています。今回はその続編で絵画編です。
パラティーナ美術館
入館して最初のうちは、あまり有名な作品が見当たりません。まず「アレゴリーの間」です。
1610〜11年頃の作品です。アルテミジア・ジェンティレスキは女流画家のはしりです。父のオラツィオも著名な画家です。父娘二代でカラバッジョに大きな影響を受けています。この作品はジェンティレスキがローマ時代に描いた初期作品だそうです。
「プロメテウスの間」以降、有名作品が増えていきます。
1450年頃の作品です。円形の絵を「トンド」といいます。リッピ唯一のトンド作品で、聖母のトンドは出産祝いとして贈られたことが多いとか。伝統的手法が取られており、1枚の絵に複数の時代が収められています。日本の絵巻物みたいな感じか。中央はもちろん聖母子ですが、背景は聖アンナ(マリアの母)の時代の話だとか。
物憂げな聖母の表情は、弟子のボッティチェリに受け継がれてますね。作者のリッピは修道士でありながら、女にだらしない生臭坊主で、いったん発情すると仕事そっちのけで女の尻を追っかけ回す習性があったそうです。パトロンであったメディチ家の老コジモもほとほと困り果て、ある時リッピを仕事場に監禁したことがあったそうです。するとリッピは発狂して暴れ出したり、果ては窓から脱出したり、さしもの老コジモもどうすることも出来なかったとか。
1485年の作品です。モデルのシモネッタ・ヴェスプッチはフィレンツェ一の美女。人妻でありながらロレンツォ豪華王の弟・ジュリアーノと恋人関係にあったといいます。シモネッタは美人薄命そのままに22歳で早逝します。フィレンツェ中が悲嘆にくれたとか。ロレンツォ豪華王はシモネッタの葬儀の後に、「彼女の美しい顔の上では死もまた美しい」と綴っています。
「ユリシーズの間」です。
1514年頃の作品です。パラティーナ美術館といえば、ラファエロの良質なコレクションが見もの。聖母子を中心に円を描く構図になっています。天使が「この人は尊い人だ」と言わんばかりに幼子を指差します。
1605年の作品です。レーニはバロックの時代にボローニャで活躍した画家です。ラファエロ的な古典主義様式に、当時の大流行であるカラヴァッジョ的明暗を加味している感じですかね。実はかなり好きな画家の一人です。
「ジュピター教育の間」です。
1608年の作品です。カラヴァッジョは画家としては不世出の天才ですが、人格的には粗暴な人物で、殺人まで起こしています。逮捕を恐れてナポリからマルタ島へと逃亡しますが、その逃亡時代にも数々の名作を残しています。この作品もその一つです。
1620年の作品です。旧約聖書におけるユディットやサロメなど首切り美女は、ちょっと怖いけど魅力的なテーマ。多くの画家が好んで取り上げるテーマです。アローリはユディットのモデルを恋人に、そして首を切られる役を自分自身で演じたと言われます。
「イリアスの間」です。
1507年頃の作品です。フィレンツェ滞在の終わり頃に作成された、ラファエロ肖像画の傑作です。フィレンツェ修行時代にレオナルド・ダ・ヴィンチから多くのものを吸収したことがみてとれますね。
1613〜1618年頃の作品です。アルテミジアが生きた17世紀は「女流画家」が認められる環境ではなかった上に、彼女自身もレイプ被害にあったりしました。さらに裁判の調べの過程で、不快な思いを散々させられたといいます。今で言うところのセカンド・レイプでしょうか。
そういう苦悩が、彼女が時折見せる暴力的な作風に影響してるかもしれません。この作品は「絵による復讐」と言われました。侍女と協力して、ホロフェルネスを討ちとるユディットはどこかたくましく、カッコイイ。この時代の画家は、みんなカラヴァッジョの影響を逃れられない感じです。
1528〜1530年頃の作品です。ルネサンス盛期のフィレンツェの大家で、伝統的画風の美しい作品を多く残しています。
「サトゥルヌスの間」です。ラファエロの作品がたくさんあるので、人気のお部屋です。
チーロ・フェッリによる天井画です。
1513〜14年頃の作品です。ラファエロの中でも最も有名な作品なのではないでしょうか。そしてラファエロの唯一のトンドらしいですね。優しそうな聖母と、妙にぶよっとした幼児のキリストが愛情を感じさせる。
1506年頃の作品です。後にロレーヌ家のトスカーナ大公フェルディナント三世によって購入されました。大公はこの作品を愛し、常に手元に置いていたため、こう呼ばれるようになりました。背景の黒塗りは後年の加筆ではないかという説があります。
1506年の作品です。これは若い頃の作品ですね。と言ってもラファエロは37歳で早逝してるんだけど。イケメンかつ優しい性格で、誰からも愛されたそうです。ただし女性関係も派手で、頑張りすぎたため病気になって死んでしまったんだ!とジョルジョ・ヴァザーリは書き残しています。(ヴァザーリは芸術家だが著述家としても優秀で、「芸術家列伝」を著し、そのおかげで我々はルネサンスの天才たちの人となりや生涯を知ることができるのである)
ちなみにこれはウフィツィ美術館にあるはずなんですけどね?
美しい「聖母子像」を数多く残し、生前から高い評価を受けていた。そのことは彼が若干37歳の死後に、ローマのパンテオンに葬られたことからもわかる。
1510年頃の作品です。貴族の肖像画らしいですね。なるほど。この人は斜視っぽいんですが、それをうまく隠すために角度を付けてるんですね。
この部屋にあるはずのドーニ夫妻の肖像はありませんでした。どこか貸し出し中かな?と思ったら、このあと訪れたウフィツィ美術館にありました!多分「自画像」とトレード貸し出しでもしてたんですかね?
カラヴァッジョが殺人を犯した後の、1608〜1609年の逃亡時代の作品です。モデルはマルタ騎士団員の人です。カラヴァッジョは逃亡時代、さまざまな場所でさまざまな人に助けられています。まるで高野長英のように。恩義を返す意味で描いた作品を各所に残しながら。私が来た時はこの部屋にありましたが、「ヴィーナスの間」にある時もあるようです。
「ジュピターの間」です。
1516年頃の作品です。ラファエロの肖像画としては最高傑作と言えるのではないでしょうか。「モナリザ」から学びつつ、自分の味も出してる感じ。
モデルは恋人と言われるフォルナリーナ(パン屋の娘)。「小椅子の聖母」も同一人物という説もあり。それ以外でも「システィーナの聖母」など、さまざまな作品で使われている可能性が指摘されているモデルです。
「マルスの間」です。
1638年の作品です。ルーベンスの活躍した時代は17世紀初頭で、ヨーロッパ史上最も凄惨な宗教戦争(30年戦争)が行われていた時代です。その寓意画ですね。
ヴィーナスが必死に軍神マルスを止めようとしています。ルーベンス自身も、外交官として各国の和平に奔走しました。
1650〜1655年頃の作品です。バロック時代のスペインの大家。甘美な聖母子像の名手として知られます。
「アポロの間」です。
1535年ごろの作品です。元娼婦で、キリストの女信徒であったマグダラのマリアは、キリストの死の後に洞窟の中で苦しい修行と瞑想を行ったという話があるが、それをテーマとしているんですね。
胸に手を当て、敬虔さを表現しながらも、ブロンドの髪から覗く「裸体の官能美」が魅力的です。
1535年頃の作品です。別名「灰色の目の男」と呼ばれる、ティツィアーノの肖像画の傑作です。
1640年頃の作品です。毒蛇に身を噛ませ自死した美女のテーマを、レーニは好んで描いています。
「ヴィーナスの間」です。
1536年ごろの作品です。フィレンツェ で現在行われている復活祭では、女性たちはルネッサンスの頃のドレスを着て仮装するのですが、この絵を参考にして当時のドレスを再現しているそうです。胸が大きく開いたところがルネッサンス・ドレスの特徴とか。
ここがミュージアム・ショップです。
光の反射に苦しみましたが、ラファエロ、ティツィアーノなど巨匠の優雅な作品を楽しめました。
ボーボリ庭園
ピッティの裏手にある「ボーボリ庭園」をちらっと散策したいと思います。
バックドロップ笑
彫刻も大変素晴らしい。しかし庭園への入り口がわからないですね。(庭園はピッティの美術館と別料金となります)
あった。
いよいよ入場していきます。
ボーボリ庭園は広大な丘陵地(東京ドームとほぼ同じ面積)に広がる庭園です。ちょっとだけ散策して帰ります。
まずは円形劇場があります。
左右には6段の階段と彫刻群が対称をなします。
ここはもともとピッティ宮殿の採石場だったらしい。その跡地に劇場が1630〜1634年の間につくられたそうです。
中央にはエジプトのオベリスクが建っています。
もともとこの庭園はトスカーナ大公のコジモ一世妃・エレオノーナ・ディ・トレドの命により、1550年から造営が始まりました。
時々振り返ってみます。左右対称の人工美が、西洋人ならではの美的感覚ですよね。
さらに上へ。
ここは庭園の灌漑用の池らしいです。
彫像や噴水、洞窟などイタリア庭園の範となった庭園です。世界遺産にも登録されています。
さあ、さらに上へ。
右手に果実、左手に麦の穂を持ち、トスカーナ大公国の繁栄を祈願します。
振り返ってみるとフィレンツェ の美しい街並み!
もうちょっと上へ行くと陶磁器博物館があります。
博物館はちょっと覗いたけど写真は撮らなかったです。
高台だけに眺めはとてもいい。
深入りせずに降りて帰ろうと思います。庭園全体を散策すると、多分2時間くらいかかるみたいです。
遠くドゥオーモが見えます。
バッカス像がありました。これはレプリカで、オリジナルは庭園内のカフェハウスにあります。実はコジモ一世に仕えた小人がモデルです。当時の欧州宮廷には慰み者として小人が置かれることが多かったようですね。
帰ろうと思ったらヘンテコな洞窟がありました。なかなか帰らせてくれません。これはブオンタレンティの洞窟です。
なんとここがヴァザーリの回廊の終点なんですってね!
すごいデザイン。コジモ一世の息子のフェルディナント一世が、ベルナルド・ブオンタレンティに命じて設計させたそうです。
私が行った時は柵があって奥まで入れなかったけど、日に何回か無料入場できる時間帯があるらしいです。
奥で抱き合うのは神話のテーセウスとヘレネ。
その横をミケランジェロの奴隷像のレプリカが飾ります。
Ristorante Giglio Rosso
晩御飯はレストランでステーキ食べました。
フィレンツェのステーキは「ビステッカ(Tボーンステーキ)」と言われます。骨のそばをかぶりつくとうまいこと。
フィレンツェ芸術巡り②【メディチ家礼拝堂、ピッティ宮殿】
イタリア・フィレンツェの旅行記です。
フィレンツェは小さな町で、徒歩圏内に観光スポットが集中してて楽。メディチ家の礼拝堂に向かいます。
また文化・教養・芸術への理解も深く、ボッティチェリ、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロらのパトロンとなりました。ルネサンス芸術の隆盛はメディチ家抜きでは考えられなかったと言われます。
サン・ロレンツォ聖堂
この聖堂はコジモ・デ・メディチが埋葬されて以来、メディチ家代々の菩提寺(埋葬の場)となりました。レンガむき出しのファサードで「何これ?」って感じですが、設計者のブルネレスキが途中で死去したため、未完のまま終わってしまったのです。後にミケランジェロ設計による再建計画も立てられましたが、実現しませんでした。
コジモ・デ・メディチは「老コジモ」や「祖国の父」と呼ばれるメディチ家の中興の祖です。15世紀に父・ジョバンニが築いた銀行業を受け継ぎ、ヨーロッパ一の富豪に発展させました。また綿密な選挙工作と徹底した政敵排除で、政府をメディチ派で固めていきました。
老コジモはフィレンツェ・ルネサンスの重要なパトロンでもありました。ブルネレスキやドナテッロらを庇護したことで知られます。また自身、エリート的古典教育を受け、数ヶ国語を話したといわれます。古典書籍の収集に異常な執念を見せ、プラトン・アカデミーを主催したことも知られています。まさに超人ですね。
素朴な外観ですが、中身は静謐で優雅な礼拝堂だそうです。(時間の都合で、入らなかった)ここを右手にぐるっと回ると礼拝堂にたどり着きます。
メディチ家礼拝堂
つきました!「メディチ家礼拝堂」です。さっそく入場していきたいと思います。
これがチケットです。
サン・ロレンツォ聖堂に付属する礼拝堂で、ローマ教皇レオ10世の依頼によって造られました。
レオ10世とはメディチ家黄金期を築いたロレンツォ豪華王の次男。メディチ家で初めてローマ教皇に選ばれた人物です。ミケランジェロやラファエロのパトロンとなったり、サン・ピエトロ大聖堂の建設を引き継いだり、文化面での業績が大きい人物でした。一方、サン・ピエトロ大聖堂の建設資金捻出のためにドイツでの贖宥状発行を認め、結果的にルターの宗教改革を引き起こしました。
入り口にはメディチ家の紋章が見えます。
君主の礼拝堂
まず2階に上がっていきます。ここは歴代トスカーナ大公の墓所となります。
高さ59メートルもあるドーム状の礼拝堂の内部です。この礼拝堂は「君主」の名前で分かるように、16世紀にメディチ家が「トスカーナ大公」となり、名実ともに君主となった後に造られたものです。
発案は初代トスカーナ大公・コジモ一世でした。
コジモ一世はシエナを併合したり、フィレンツェの都市改造を行ったりした英雄的人物です。
八角形のドームの内部を飾る宗教画の数々です。
巨大な棺の上にはブロンズの像がのっています。
とにかく床から壁から、大理石や高価な石で埋め尽くされていますね。床にもメディチ家の紋章が。
新聖具室
ミケランジェロ・ブオナローティ「ウルビーノ公ロレンツォの墓碑」
次は「新聖具室」へと向かいます。あのミケランジェロが設計と装飾を手がけた、小さな霊廟です。ここでは二つの墓碑が向き合ってます。一つめはウルビーノ公ロレンツォ・デ・メディチ。真ん中の兜をかぶった男の墓碑です。この人はロレンツォと言っても、有名なロレンツォ豪華王ではなく、その孫ですね。
ウルビーノ公ロレンツォ・デ・メディチ。ミケはこの像に「思索」という題名を与えています。表情はよく見えませんが、うつむきかげんで物思いに沈んだ感じです。実際のロレンツォは粗暴で好戦的だったため、ムダに戦費を負担させられたフィレンツェ市民からは「糞野郎殿」と嫌われていました。
彼はマキャベリが「君主論」を進呈した人物として知られます。もっとも興味も持たず読みもしなかったそうですが。彼はわずか26歳で死去しましたが、死んだ年に生まれた長女カテリーナが歴史的人物となります。カテリーナは後にフランス王妃となり、カトリーヌ・ド・メディシスと名乗ることになります。
ロレンツォの像の前には男女の寓意像があります。女性の方が「曙」です。
「曙」の方の表情は悲しげですね。一番若々しい肉体なのに。
男性の方が「黄昏(夕暮)」です。
おっさんなんだけどムキムキですね。ミケランジェロは終生、男性の裸体美に執着し続けます。同性愛に罪悪感を抱きながらも離れられなかったのです。
こちらサイドは「瞑想的生」を表現しているみたいです。
ミケランジェロ・ブオナローティ「ヌムール公ジュリアーノの墓碑」
もう一つはヌムール公ジュリアーノ・デ・メディチ。この人はロレンツォ豪華王の三男です。
ちなみにこちらサイドは、「活動的生」を表現していて対称の美をなしています。
実際のジュリアーノは政治的野心より貴族的な享楽を好み、フィレンツェの統治者の座もウルビーノ公ロレンツォに譲ってしまいます。
ミケランジェロは、ジュリアーノやロレンツォ本人に似ているかどうかなどは一切無視して、これらの像をつくったそうです。そのため市民からは大変な不興を買いますが、「1000年経ったら似てるかどうかなんて誰もわからない」的な発言をしていたそうです。
ジュリアーノの像の前には男女の寓意像があります。女性の方が「夜」です。出産直後の女性と言われてます。
ミケランジェロは女性像をつくる時にも、男性モデルを使っていたことで知られます。この「夜」も乳房をとってしまえば、普通に筋骨隆々の男性に見えますね。
男性の方が「昼」です。
アンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチの像
入り口付近にある美しい女性の像はまるで観音様。この人は「最後のメディチ」と言われるアンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチ。
18世紀にメディチ家が、トスカーナ大公の座をハプスブルグ=ロートリンゲン家のフランツ・シュテファン(マリア・テレジアの夫、マリー・アントワネットの父)に譲り渡した時の、最後の当主です。
彼女は子宝に恵まれず、またその兄弟にも後継ぎがいなかった(同性愛者だらけだった)ため、メディチ家直系がここで断絶してしまったのです。350年に渡るメディチ家のフィレンツェ支配が終わりを告げた瞬間でした。
しかし彼女は遺言として「家族の協定(パット・デ・ファミーリア)」を残します。これが偉大な決断だったのです。
彼女のこの遺言のおかげで、ルネサンス芸術の至宝がフィレンツェから散逸せずに、現在私たちが目にできるわけです。
こちらはショップです。
この後は徒歩でピッティ宮殿へと向かいます。
共和国広場
途中で共和国広場が見えてきました。
共和国広場の凱旋門は1865年につくられたそうです。
イタリアの国家統一は遅く、ほぼ日本の明治維新やドイツ帝国成立と同時期です。奇しくもこの三国が、後に同盟を組むことになるんだよね。
統一イタリアの首都として、一時はフィレンツェが選ばれていました。(1865〜1871)
真ん中のメリーゴーランドがいい雰囲気ですね。
路上に絵を描くパフォーマーがいました。チョーク・アートっていうのかな。ダヴィデとかボッティチェリとかのすごくうまい絵を描いて、翌朝になると清掃で消されているとか。
新市場(メルカート・ヌォーボ)
ここではフィレンツェ名産の革製品を、気軽に買うことができます。
新市場の横手に「イノシシの像(幸せの仔豚)」があります。1640年頃に、ジャンボローニャの弟子ピエトロ・タッカによってつくられたそうです。
この豚の鼻をナデナデすると、幸せになれるとか。ありがちなパターン。鼻はすり減ってますね。
ヴェッキオ橋
これはヴァザーリの回廊です。ピッティ宮殿とウフィツィ美術館をつなぐ約1Kmの秘密の通路です。
ヴァザーリの回廊は、1565年にコジモ一世が建築家ヴァザーリにつくらせた通路です。メディチ家にとっては、ウフィツィが仕事場で(そもそもウフィツィとは「オフィス」の意味)、そこから住居であるピッティ宮殿への専用通路としてつくらせたんだそうです。この回廊の一般公開は不定期でいつでも見学することはできませんが、たくさんの肖像画が右に左に飾られているそうですね。
ヴェッキオ橋の上も回廊が続いています。
ヴェッキオ橋は1345年につくられたものだそうです。700年も前なんだ。そもそも「古い橋」という意味だそうですよ。
第二次大戦中のドイツ軍との戦いの時に、アルノ川の橋は全て落としてしまったのですが、ヴェッキオ橋だけは歴史的価値を惜しんで落とさなかったそうです。ゲラルド・ヴォルフ大使というドイツ人の嘆願によるとか。どこの国でも歴史や伝統の価値が分かる偉い人はいるんですよね。
ヴェッキオ橋はかつては肉や魚の市場がひしめいていたんですが、悪臭が凄かったらしく、トスカーナ大公の命によって、宝石や貴金属の工房を入れることにしたそうです。
高級そうなお店が並びます。
ヴェッキオ橋の真ん中のあたりに休憩スペースがあります。
この胸像はベンヴェヌート・チェッリーニのものです。ルネッサンスを代表する金細工師・彫刻家です。年老いてから口述の回想録を著し、殺人あり、投獄ありの破天荒な人生を告白したことで知られます。ルネッサンス版の勝小吉かな。
アルノ川をのぞみます。
ヴァザーリの回廊がウフィツィ美術館まで伸びていますね。
ヴェッキオ橋を渡った向こう岸に、フィレンツェ最古の教会の一つのサンタ・フェリチタ教会がありますが、そこにも回廊は続いてるんですね!メディチ家専用のミサが行われていたとか。回廊から降りることなくミサに参加できるのです。
ここにはポントルモの十字架降下の祭壇画がありますね。寄る時間はないけど。
ピッティ宮殿
さあ、ピッティ宮殿に到着しました。
もともとは15世紀に銀行家ルカ=ピッティによって建設が始められた宮殿でした。しかし完成を待つことなく、ピッティ家は没落し、宮殿も建築中断のまま放置プレイされていました。
が、100年後にメディチ家の初代トスカーナ大公・コジモ一世が買い取ることになりました。身体が弱かった妻・エレオノーラのためでした。
で、次第に「公務はウフィツィ」「私生活はピッティ」と使い分けされるようになっていきました。
その後、宮殿の主(トスカーナ大公)はメディチ家からハプスブルグ=ロートリンゲン家に代わりましたが、美術品収集や増改築は約400年にわたって続けられました。
パラティーナ美術館
現在、ピッティ宮殿内にはいくつもの美術館が作られて一般公開されています。特にラファエロのコレクションで名高いのが「パラティーナ美術館」です。
ピッティ宮殿の2階が「パラティーナ美術館」。別名「ピッティ美術館」ともいいます。
これがチケットです。
ここは「控えの間」らしい。演奏会などで使用されてるみたいです。
天井装飾など見事なものです。
いよいよ入館していきます。今回の記事では、彫刻・天井画・室内装飾を中心にレポしていきます。
窓の外にはボーボリ庭園が見えます。これも後で訪れることになります。
バッチョ・バンディネッリ「バッカス」
1549年の作品です。バンディネッリは自称ミケランジェロのライバルとして、作品が物理的に並び置かれることが多い彫刻家です。残念ながら評価は並ぶところまでいかなかったわけですが。
回廊には両側に見事な彫刻がズラリ。
「ヘラクレス」(ローマ帝政時代)
「メルクーリオ」(1世紀)
古代彫刻もかなり修復された形で展示されています。ルネッサンスの頃は発掘した彫刻を、修復や加工したりするのが一般的でした。
「イゲア」(2世紀)
「Satiro e Pan」(2世紀)
「クニドスのアプロディーテ」(1〜2世紀)
「アスリート」(2世紀)
「カスタニョーリの間」です。
ミューズのテーブルというそうです。
よく見ると土台部分にも彫刻があるんですね。
テーブルにはアポロンが描かれています。
天井にもアポロンが!対応しているんですね。
ここは「音楽の間」だそうです。
ここで音楽を楽しんだそうです。
「アレゴリーの間」です。
エミリオ・ゾッキ「若きミケランジェロ」
1862年の作品です。この苦痛の表情は何を意味してるんでしょうね。
天井画はイル・ヴォルテッラーノの手によります。
「ストーブの間」です。
かつてトスカーナ大公の浴室として使用されたようです。
「イリアスの間」です。
古代ギリシャ叙事詩「イリアス」の天井画が描かれています。
「ジュピターの間」です。
ヴィンチェンツォ・コンサーニ「ラ・ヴィットリア」
19世紀の作品です。
「ジュピターの間」の天井画です。
「ヴィーナスの間」です。
アントニオ・カノーヴァ「ヴィーナス」
1804〜1811年にかけて制作されました。ちょうどナポレオン戦争の時代ですね。
カノーヴァは18世紀から19世紀にかけて活躍した大彫刻家です。新古典主義に分類されます。
イタリアだけでなく、メトロポリタン、エルミタージュ、ルーヴルと世界中にカノーヴァの作品が置かれています。
「緑の間」です。
いろいろ「何何の間」とかあるんですけどね。正直こんがらがってますね。日本語のガイドブックがショップで売ってるそうなんで、まずそれを買って参照しながら眺めていくのもいいかもしれません。買っておけばよかったな。
フィレンツェ芸術巡り①【アカデミア美術館】
イタリア・フィレンツェ紀行です。
成田国際空港
まずは成田国際空港にやってきました。これからスイス・エアラインズで、チューリッヒを経由し、フィレンツェに向かいます。
まずはチューリッヒまで約12時間の空の旅です。いよいよ出発!
機内食は2回です。これが1回目、なかなかうまい。ご飯も食べられた!
そろそろチューリッヒに近づいてきました。二回目の機内食です。
チューリッヒ空港
チューリッヒ空港に到着しました。初めてスイスにきました。ここで乗り換えです。
チューリッヒ空港のショップで。やはりアルプスといえば「アルプスの少女ハイジ」なのか。
ここからは小型機で、イタリアへ向かいます。
アルプス越えをしていきます。(これは実は復路の画像。往路は窓際の席でなかったため、撮影できなかったのです)
こんな世界に来てしまったのか。
フィレンツェ・ペレトラ空港
フィレンツェのペレトラ空港に到着!
すごく小さな空港でした。田舎の駐車場かと思った笑
ここからはバスで市街地のホテルに向かいます。
ホテル・アルバーニ
ホテル・アルバーニに宿泊します。サンタ・マリア・ノヴェッラ駅から歩いて5分程度の便利なホテルです。
エントランスからしてなかなか豪華な雰囲気ですね。
スマホの貸し出しもあります。
海外のホテルはまずシャワーとトイレを最初にチェックします。
テレビはCSみたいで、多チャンネルだった。なぜかルパンがやってた!どうせなら「カリオストロ」や「死の翼アルバトロス」とか流して。
どこの国も女優さんは綺麗だな〜〜。意味がわからなくても外国に行くと、必ずテレビを付けっぱなしにしてます。日本だと全然見ないんですけどね。
飛行機内だとあまりよく寝れないんですよ。ホテルのベッドでようやく休めました。
さあ、明けて翌朝、なんといきなりラテンっぽいアバウトさを感じさせる出来事に直面しました。イタリア政府は「3月5日~10日を、文化週間としてイタリア全土の国立美術館・博物館を無料とする」と発表したのです。私は6日に来てますから、直撃を受けることになりました。
こんな影響の大きい決定を、わずか2週間ぐらい前に、紙っぺら一枚、HPにさらっと掲載して、それで許されると思っている。なんという奴らだ・・笑
ウフィツィ美術館やアカデミア美術館など人気スポットは、常に大行列で大混雑。そういう事態を避けるために、ミュージアム・パス(フィレンツェ・カード)を事前購入して、優先入場できるようにする旅行者が多いわけです。
ところが、無料となれば普段にも増しての大混雑が予想されます。かわいそうなのは高い金を出して、フィレンツェ・カードを買ってしまった人。無料にされた上に、優先入場の権利も消滅してしまって並ばなければならない。
アカデミア美術館
で、何としてもアカデミア美術館に入館できるよう、朝7時そこそこに並び始めました。(開館は8時15分)しかし世界的作品がある美術館なのに、なんか普通の建築物ですね!
なんとまだ誰もいませんでした。文化週間自体が唐突な発表だったらしいので、みんな知らないのかもしれない。とにかく無事早めの入館ができそうです。
さあ、入館していきます。今回はNOT RESERVEDの入り口しか設置されません。
これがチケットです。やっぱりダヴィデがアカデミアの目玉です。というより殆どみんなダヴィデだけが目的です。
ダヴィデ巡礼の観光客が押し寄せるため、アカデミア美術館はウフィツィ美術館に次いでイタリアで2番目の入館者を誇ります。(年間だいたい150万人来場するらしい)
ジャンボローニャ「サビニの女たちの略奪」
入館早々いきなり度肝を抜く作品に出会いました。
1582年の作品です。トスカーナ大公フランチェスコ一世・デ・メディチの命により、造られました。古代ローマ建国神話を元にした、三人の男女のダイナミックなからみあいは迫力があります。マニエリスム彫刻の大傑作ですね。
これと同じ大理石作品(完成品)が、シニョーリア広場のロッジアにもあります。
これは石膏模型ですが、ジャンボローニャ自身がつくってるので、オリジナルです。
後のベルニーニの作品にも影響を与えてるでしょうねえ。
アカデミア美術館といえばやはりミケランジェロですね。いよいよミケランジェロ・ルームに突撃していきます。
ダニエレ・ダ・ヴォルテッラ「ミケランジェロの胸像」
1564〜66年頃の作品です。「神のごとき」と言われた彫刻家・画家・建築家(本人はあくまで「彫刻家が本職」と主張し続けた)の、ミケランジェロのデスマスクから作成されています。
作者のヴォルテッラは晩年のミケランジェロと親しく交わっていたことで知られます。ミケの死後、ヴァチカンの「最後の審判」に描かれた性器を覆う腰布を描かされたのもヴォルテッラです。おかげでヴォルテッラは「ズボン作り」と揶揄されることになります。
ミケランジェロは、若いころケンカでぶん殴られて少し鼻が曲がっているんですよね。大芸術家らしい、傲岸不遜なところがあったようです。
「ダヴィデ像」が見える!が、それはとっておいて、手前の作品もミケランジェロのものです。
ローマ法王ユリウス二世の墓廟を飾るために作成していた「奴隷像」が未完のまま設置されています。(完成体2体はルーヴル美術館にある)
ミケランジェロ・ブオナローティ「若い奴隷」
1525〜30年頃の作品です。これは比較的制作が進んでましたね。
ミケランジェロ・ブオナローティ「髭の奴隷」
奴隷像はすべて苦しみを表現しており、そこから逃れようとする姿を描いているそうです。
ミケランジェロ・ブオナローティ「目覚める奴隷」
ミケランジェロ自身が言うように、石の中から生命を持って生まれてくるようです。
ミケランジェロ・ブオナローティ「アトラス像」
1525〜30年頃の作品です。
奴隷像シリーズは、気まぐれなユリウス二世の心変わりにより中断され、途中で放棄されてしまいます。ユリウス二世の思いつきの行動にミケは振り回され続け、何度も逃走しています。
結局ユリウス二世霊廟の完成には40年もの時を要することになってしまいました。でも、その気まぐれのおかげでシスティーナ礼拝堂の天井画が描かれることになるのです。
ミケランジェロ・ブオナローティ「聖マタイ像」
1530年頃の作品です。ドゥオーモのファサードを飾るために作られたそうです。
ミケランジェロ・ブオナローティ「パレストリーナのピエタ」
1555年頃の作品です。ミケのピエタといえば、ヴァチカンにあるものが有名ですが、それ以外にも生涯のテーマとしてピエタを作り続けています。
もっともこのピエタは贋作説もあるそうです。
ミケランジェロ・ブオナローティ「ダヴィデ像」
さあ、いよいよ世界で最も有名な彫刻作品「ダヴィデ像」です。1501〜1504年に作成されました。なんとミケ26〜29歳の作品です。これを見にきたんです。
教科書で見たイメージを超えて、実物は4メートル以上の巨像で圧倒されます。
実は瞳はハート型になってるんですよね。下からだとわからないんですが。今まさに巨人ゴリアテに打ちかからんとする闘志に燃えています。
ヴァチカンの「ピエタ」で、若くして名声を不動のものにしたミケランジェロ。
フィレンツェ政府は、フィレンツェ共和国の「自由と正義の精神」の象徴として、ミケに大理石彫刻を依頼しました。古代以来、1000年以上も造られなかった大理石による巨像彫刻です。
ダヴィデ像は古くは老人として作られることが多かったそうです。それが15世紀になるとドナテッロらによって、少年として作られるようになります。
ミケはさらに考えを変化させ、究極の肉体美を持つ青年としてダヴィデを完成させました。
この作品は元々ドゥオーモの外壁を飾る予定で制作されました。下から見上げる構図をイメージして、頭部と手は大きめに造られています。しかしあまりの出来の素晴らしさに、別の公的な場所に置こうという話になりました。
この傑作を一体どこに設置するかで大議論になりました。ミケより20歳以上年上のレオナルド・ダ・ヴィンチは政庁舎前のロッジャに置くことを主張したそうです。
しかしミケは「わかってねえな、爺さん。ダヴィデは太陽の下におかないと意味ないの」と政庁舎前の正面玄関前に置くことを主張。1504年から1873年までそこに置かれていました。
背後からも鑑賞することができるのは素晴らしい。
この作品が造られた時代のフィレンツェは、まさに政治闘争の時代。
ミケランジェロらを育んだメディチ家のロレンツォ豪華王は既に亡く、メディチ家は失策のため、フィレンツェを追われていました。
サンマルコ修道院長サヴォナローラの神権政治が幅をきかせますが、まもなく失脚。サヴォナローラはシニョーリア広場で火刑に処されます。
その後、台頭したのはピエロ・ソデリーニ新執政官。ミケランジェロの友人でもありました。
ソデリーニ政権の書記官として、市民軍を組織しようと奮闘したのが、あのニッコロ・マキャベリでした。
マキャベリは政治学の名著「君主論」を著した人物です。
「ダヴィデ像」は混迷する時代背景の中、フィレンツェの都市国家防衛の象徴を期待され、誕生したのです。
フィレンツェだけでもダヴィデのレプリカは2体立ってますが、オリジナルはこれです。
ストラディバリウスのヴァイオリン
アカデミア美術館には楽器も展示されています。ストラディバリウスのヴァイオリンは1挺数億円もするらしいですね。一番右のやつの中心にあるのは、長くフィレンツェを支配したメディチ家の紋章です。
真ん中のやつにもメディチ家の紋章ありますね。
ここからは絵画を見ていきます。
サンドロ・ボッティチェッリ「聖母子と聖ジョヴァンニーノと二天使」
ボッティチェリの初期作品とのことです。1470年頃の作品ですね。
聖母の表情はフィリッポ・リッピ(ボッティチェリの師匠)のタッチを受け継いでいます。
パチーノ・ディ・ブオナグイーダ「生命の木」
14世紀初めにジョット派の画家・ブオナグイーダによって描かれた作品。もともとは修道院に飾られていたらしいですが、近代になってアカデミアに移された様子です。キリスト磔刑の図が木になっていて、そこから果実がなっているようです。で、その果実の中にイエスの物語が描かれている。天上には天国が描かれているようです。
ジョヴァンニ・ダ・ミラノ「ピエタ」
1365年の作品です。この画家も14世紀の人で、やっぱりジョットの影響を強く受けているようです。イエスの身体なんてかなり立体的です。
ヴァザーリの追随者「聖バルバラ」
1550〜60年頃の作品です。
フランチェスコ・サルヴィアーティ「聖母子と聖ジョヴァンニーノと天使」
1543〜48年頃の作品です。
ジュリアーノ・ブジャルディーニ「聖母子と聖ジョヴァンニーノ」
1520年の作品です。どうしても反射しちゃうのはどう撮影すればいいんですかね?
ヤコポ・ダ・ポントルモ「ヴィーナスとキューピット」
1533年の作品です。ミケランジェロの下絵を元に、イタリアのマニエリスム期の画家・ポントルモによって描かれました。確かに、このヴィーナスの身体はミケランジェロっぽいですね。男性的なたくましい肉体を持つ女性です。これも反射しちゃったので、少し離れてズームで撮影しました。
バルトリーニ石膏模型コレクション
Gipsoteca Bartoliniという石膏彫刻が大量にある部屋に来てみました。
ロレンツォ・バルトリーニ、ルイージ・パンパローニらの19世紀の彫刻家による石膏彫刻がありました。
あまりにも数が多く、名前を記録するのは諦めてひたすら撮影しました。
彫刻にある黒点なんだろう?と思ったんですが、よく考えればアカデミア美術館は、フィレンツェ美術学校の付属美術館なんですよね。この黒点も生徒たちの勉強用のものなのでしょうか?
どうしてもアカデミアというと「ダヴィデだけ!」という印象があります。ちょうどオランジュリーが「モネだけ!」というのと同じように。でも、ダヴィデ以外も見応えがあり、素晴らしく面白い美術館だなと思い直しました。
ショップも面白げなグッズたっぷりです。
ここが出口。ひたすら地味です。
でもすごく並んでましたね。美術館はやっぱり空いてる朝一に来るもんですねえ。
広大なウフィツィ美術館と比べると、こじんまりとした美術館だから密集度はすごい!それもみんなほとんどダヴィデに集中して、他はさらっと流してました。
首都圏外郭放水路見学
埼玉県春日部市の首都圏外郭放水路にやってきました。
東武アーバンパークライン大宮駅です。アーバンパークラインって切れ目も分からないが、アーバン・パーク・ラインなんですね。何のことか分からなかったですが、正体は東武野田線でした。
南桜井駅。ここから目的地まで約30分歩きました。
首都圏外郭放水路
埼玉県春日部市、「地下神殿」として有名な治水施設にやってきました。
このグラウンドの下に地下神殿があるのか。
庄和排水機場です。
この中に見学会の集合場所の龍Q館があります。ネットで予約済みです。
1階は放水システムに関する展示がされていますね。
ここの窓口で見学料金を払います。立坑と地下神殿のセットで3000円でした。
2階が集合場所。地層タワーを見ながら上がっていきます。
工事の際に発見された地層で、下部は12.5万年前で、上部は5000年前くらいのものらしい。
2階には中央操作室があり、ガチで操作してる様子が見れます!
ここの20ものモニターで施設各所を監視し、操作することが出来ます。
カッコいい。
あまりにカッコいいため、特撮や映画の撮影にも使用されているようです。仮面ライダーの基地には最適ですね。
完成時、扇千景が大臣だったのか。キップのいい女性大臣でしたね。
この地域(中川、綾瀬川流域)は北の江戸川、南の荒川の大河に挟まれた皿のような低平地です。この緑っぽい地域です。
この地域はひとたび大雨に見舞われると、洪水で危険な状況になりがちでした。
都市化が進行して、保水機能を持つ田畑が減少したことも原因の一つです。
そこで、豪雨時の浸水被害を軽減するために、地域の河川をコントロールして江戸川に排水するシステムが構築されたのです。下は江戸川です。
筑波山が見えます。
近隣の河川から5つもの立坑に水が流入します。それを地下50メートル、全長6キロに及ぶトンネルで流していきます。
それを「地下神殿」こと調圧水槽で受け入れ、水の勢いを弱めます。
水槽に溜まった水を排水機場のポンプで、江戸川に排水します。ポンプは航空機用のガスタービンを改造して造った強力なもので、プール25メートル1杯分の水を1秒で排水できます。
第一立坑
さあ、まず第一立坑を見学していきましょう。
ヘルメットとキャットウォーク歩行用のベルトを着用します。
ここがキャットウォークです。
この立坑は深さ70メートルの高さ。スペースシャトルや自由の女神がすっぽり入る高さです。
キャットウォークを歩いていきます。
ベルトは壁面と繋げるようになってるので安全です。
内径は30メートル。
階段で途中まで降りて見学も出来ます。
近隣の中川、倉松川、大落古利根川などからの増水が流れ込みます。
だいたい年7回程度稼働しているようです。
調圧水槽が見えます。
この後、見学する地下神殿です。
調圧水槽(地下神殿)
続けて有名な地下神殿を見学していきましょう。
これだ、これ。
高さ18メートル、重さ500トンの巨大な柱が、なんと59本もあります。
地下神殿は長さ177メートル、幅78メートルの広大さを誇ります。
ここで水の勢いを弱め、江戸川に水をスムーズに流せるようにします。
さっきまでいた第一立坑が見えますね。
天井の穴からブルドーザーを下ろして、溜まった土砂を排除するようです。
これはイスでなく、ブルドーザーの足止めなのです。
浸水被害の軽減効果は、過去18年間で約1484億円分軽減したと推定されています。
2019年の台風19号の時に、この地域は氾濫危険水位を越える出水となり、首都圏外郭放水路は歴代3位のフル稼働を行いました。
あの年の台風19号は、大被害をもたらした1982年の台風18号より強力な台風だったのにもかかわらず、浸水戸数は9割減、被害額は約264億円減という、驚異的な軽減効果がありました。
一時、公共事業は随分と悪者扱いされていました。「コンクリートから人へ」などと。左翼は本当に民衆の扇動に長けている。
しかし災害大国の日本にとって、耐震と治水は生命線。平時には無駄遣いのように見えても、いざという時に国民の生命・財産を守ってくれるものなのです。
見学後はまた30分かけて、歩いて駅に到着。いい勉強といい運動になった。
旧日立航空機立川工場変電所【戦災遺跡】
多摩モノレール立川北駅
多摩モノレールで移動します。
玉川上水駅
目的地は都立東大和南公園です。玉川上水駅から徒歩5分くらいでした。
快適な感じの公園ですね。
目的地が見えてきました。
旧日立航空機立川工場変電所
この建物は1938年に建てられた「日立航空機立川工場変電所」です。機銃掃射の痕が生々しい戦災建築です。
この弾痕はアメリカ軍の小型戦闘機による機銃掃射や、B29の落とした爆弾が炸裂して出来たものです。「西の原爆ドーム、東の変電所」と言われているとか。
この工業地域は1945年の2月から4月にかけて、米軍による3回もの攻撃を受けています。合わせて110余名に及ぶ死者を出しています。
B29爆撃機によって落とされた500ポンド爆弾の実物大模型です。
B29が撮影した空襲の様子。ここの工業地域では陸軍用航空機のエンジンを生産していました。
戦争末期には女性含む学徒勤労動員が行われました。どこの国も戦時には総力戦体制となった時代でした。
立川工場に動員された学校は、豊島岡女子、中大附属、獨協高校、日大二高、都立武蔵、都立南多摩、津田塾大学、東大教養学部、東京経済大学など。
内階段に残る銃撃痕です。
非常用電源として使われた蓄電池室です。
ここにも銃撃痕が見えますね。
2020〜21年による修復で階段の補強工事が行われました。
ここが2階です。
95式1型練習機乙型です。通称「赤とんぼ」。この機に載せるエンジンを製造していました。
2階には宿直室が保存されています。
配電盤です。
ここにも銃撃痕が!
テラスにも多くの銃撃痕が残っていました。
ここは外階段。もともとこの建物は1階を倉庫、2階を事務所として使用しており、従業員は2階から出入りしていました。
慰霊碑に手を合わせます。
米軍の機銃掃射は無差別かつ無慈悲なものでした。民間人をなるべく多く殺戮し、厭戦気分を高めて日本の降伏を狙ったのです。
こちらが裏手です。
これは変電所の北側にあった受電施設を防護する「防護壁」です。
広島原爆を耐えた「被曝アオギリ」の種子から育てられた「被曝アオギリ二世」です。
一周まわってきました。
この変電所は経営会社が変わった戦後も稼働し続け、何と1993年まで工場に電気を送り続けました。
この地が都立公園として整備されるにあたって、この変電所は一旦は壊される運命にありましたが、貴重な戦災建造物を後世に残したいという市民の活動により、保存されることとなりました。
給水塔(部分保存)です。戦後も稼働されましたが、2001年惜しくも解体されることになりました。爆撃の痕跡を残す部分を切り取って、ここに保存されています。
変電所は現在、東大和市文化財に指定されています。
毎週水・日曜日に無料公開されています。