歴史と文化・巡礼の旅日記

歴史と文化を訪ねる紀行ブログです。

満洲・旅順歴史巡り①【東鶏冠山、203高地】

満洲(現在はチャイナの東北部と呼ばれる)を中心に歴史巡りをしていきたいと思います。旅順は遼東半島の付け根。大連市に属します。大連市旅順区ですね。

旅順は日露戦争の山場・旅順包囲戦の戦場となった激戦地でした。ロシアは旅順に巨大要塞を建設し、鉄壁の守りを築きます。

東鶏冠山北堡塁

東鶏冠山北堡塁です。「登るな!」と書かれてありますね。言われなくてもこんなところ登るか。

ここにロシア軍のコンクリート製のトーチカがあり、日本陸軍を迎え撃ちました。

30門の大砲を備え、日本軍を撃退しました。1904年8月の最初の総攻撃では、日本軍は全滅しました。ここからロシア軍は攻撃したのか↓

弾痕はすごい。

ここが最後に日本軍が爆砕、制圧した場所です。12月のことでした。

で、このすぐそばの高台を上がると・・

ロシアの機関銃陣地があるんですね。

つまり日本軍は上から横から挟み撃ちにあったわけです。全滅するよな、そりゃ。

日露戦争は第0次世界大戦とも言われます。史上初の現代戦という意味ですが、それはやはり機関銃の本格的使用の意味が大きい。

日本軍が得意とする歩兵突撃が通用しない、厳しい戦いでした。死屍累々で日本軍の死傷者9000名とも言われます。それでも旅順要塞は落ちませんでした。

 

大正時代に建てられた慰霊碑です。珍しく破壊されなかったようですね。

ロシア軍兵士の宿舎です。

電話室?これは多分戦後に日本軍が制圧した後につくられたのかも?

弾薬庫です。

ロシア陸軍コンドラチェンコ少将の慰霊碑です。

コンドラチェンコ少将は、兵士たちの人望も厚い名将でしたが、兵士たちを激励に回っていた際に日本軍の砲撃の直撃を受け、即死しました。

日本の武人の作法として、敵将にも敬意を示し慰霊碑が建てられています。

 

さて見学を終え、次の場所に移動しようとしたら・・

本当に登ってるやつがいるw

203高地

203高地は、日露戦争の最初の天王山ともいうべき死闘でした。このわずか200メートルの小山を巡って、日露両軍が激闘を繰り広げます。

今は桜の名所のようですね。カートが出てるので、途中まで楽チンで登れます。

カートの後ろの席から撮影。両側に桜並木。春に来たら壮観でしょうね。

 

さあ、ここからは徒歩でミニ登山していきます。

しんどいが、兵隊さんのご苦労を思えば・・

着きました!

これが爾霊山(にれいさん)の記念塔だ!旅順の戦闘後に、乃木大将が命令をして、散乱していた弾丸を集めて作られた弾丸型の慰霊碑です。

爾霊山とは203をかけています。

記念塔の説明文が日本語版もありましたが、悪意に満ちてますね。共産主義者が書けばこんなもんでしょうね。

さあここから旅順軍港が見えます!

見えました!ここなら旅順港は丸見えですね。

旅順港の入り口・旅順口です。狭いね!幅はわずか273メートルだそうです。

この狭い入り口を、古い船を沈没させて閉鎖して、ロシア旅順艦隊が出撃できないようにしようとした作戦が「旅順口閉塞作戦」です。しかし後に軍神と言われる広瀬武夫少佐の戦死などもあり、この作戦は失敗に終わりました。

そして次に検討されたのが、陸軍の力を借りた「203高地の争奪」だったのです。ここを取れれば旅順軍港は丸見え。ここを観測所として使い、旅順軍港のロシア艦隊の位置を把握。砲撃をかけて粉砕するという作戦でした。

ロシアの大砲です。150mmキャノン砲で、ロシア軍も203高地を死守しようとしました。

日露の凄まじい争奪戦となり、日本陸軍最強と言われる旭川第7師団がわずか5日間で5分の4の戦力を喪失するという、信じられない死闘になってしまいました。

これは日本軍の大砲ですね。28cm榴弾砲です。

もともと日本の海岸沿いに設置された対艦砲でしたが、乃木第三軍に計18門送られました。

最大射程は7800メートルです。

実際には、観測無線にしたがって平地から砲撃していました。

お土産も売ってました。弾丸まで売ってるのか?いくら?と聞いたら非売品だったみたい。

冷静に考えればこんなもの買っちゃったら出国できないよな。

 

その代わり「ロシア・アイス」を食べました。

203高地でロシアを食おう!

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