歴史と文化・巡礼の旅日記

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ハワイ歴史巡り③【真珠湾 戦艦ミズーリ】

ハワイ旅行記、真珠湾歴史巡りの続編です。

「アリゾナ・メモリアル」慰霊の後は、フォード島に渡って「戦艦ミズーリ」を見学しました。
 
ちなみにフォード島へと渡る橋の近辺は、写真撮影が厳しく禁止されています。
確かに強襲揚陸艦など碇泊していました。

戦艦ミズーリ

戦艦ミズーリ入り口には、チェスター・ニミッツ元帥の像が迎えます。真珠湾の責任で解任されたキンメル大将の後釜として、太平洋艦隊司令官に大抜擢されました。(その際、少将から特進で大将に昇進)
ニミッツはその期待に応えて、日本海軍を壊滅に追い込みました。
ただしニミッツ元帥は、日本の東郷平八郎元帥に心酔しており、その尊敬は日本と戦争をしても変わることはありませんでした。戦後に横須賀港で放置されていた戦艦三笠を、記念艦として顕彰することに尽力したのはニミッツなのです。

アメリカ国旗が両側に並びます。
これらは織られたもので正式な国旗だということです。
対日戦勝時の有名なヴィクトリー・キッスの人形が!
このことからわかるように、ミズーリは対日戦勝と大いに関係があります。
1945年9月2日、東京湾に浮かんだミズーリ艦上で、日本軍の降伏文書署名が行われたのです。
戦艦ミズーリは1944年1月に進水しました。進水式にはメアリー・マーガレット・トルーマンが参加しています。対日戦勝の時の、トルーマン大統領の娘です。
大戦末期に実戦投入され、活躍しました。
40.6㎝主砲の威容は凄い。
終戦直前の1945年には室蘭や日立を艦砲射撃して大被害を起こさせています。
ミズーリはいったんは予備役になったものの、約30年のブランクの後に近代化改装し、再就役。湾岸戦争でも活躍。トマホークでイラクを攻撃しています。
再退役後の1999年からは記念艦として、「アリゾナ・メモリアル」のそばに展示されるようになりました。
 
アリゾナの隣にミズーリを置くというのは、いい意味に考えれば「戦争の始まりと終わりの象徴」とも受け取れます。
 
ここはミズーリ艦上の、日本軍降伏文書調印の場です。
1945年9月2日のことでした。この上に机が置かれて調印式が行われました。
 
これがミズーリ号艦上の降伏書類調印の場面です。
晒し者にされてますね。アメリカには武士の情けが無いのかね。日露戦争でのステッセルやロジェストヴェンスキーへの扱いとはえらい違いだ。
 
アメリカ代表はマッカーサー元帥。


これは1853年ペリーが来航した時の国旗レプリカです。マッカーサーは何故ペリーを持ち出したのか?
いい意味に考えれば「憎しみの時代は終えて、新たな日米関係を始めよう!」みたいな意味なのでしょうか。
 
こちらが日本代表団。杖をついているのは重光葵全権、そしてその右隣が梅津美治郎陸軍大将です。
これが降伏文書のレプリカです。
屈辱ですね。そしてこの日、9月2日で第二次大戦は正式に終了します。ただし8月15日以降も千島列島に侵攻していたソ連軍の進軍は、9月5日まで続くことになります。
 
ここも重要な場所です。
1945年4月17日、この凹んだところに日本の特攻機が突入しました。

ミズーリへの特攻機の突入。
この特攻はミズーリの外壁を凹ませただけに終わってしまったが、戦死した日本パイロットの上半身がミズーリ艦上に投げ出されました。
 
水兵たちがその遺体を投棄しようとしたところ、ミズーリのキャラハン艦長は「その日本兵を敬意を持って葬れ」と命じ、翌日海軍式の水葬が行われました。
 
米兵の中には、敵を丁重に葬ることに違和感を感じる者もいました。が、キャラハン艦長は「国のために命をかけた点で、諸君らと何ら変わりない」と諭しました。
水葬は御遺体を国旗に包んで行いますが、ミズーリに日本の国旗などある筈もない。米兵達はわざわざ徹夜で旭日旗を作って、日本の英雄を葬いました。
この日本人パイロットは、石野節雄二等兵曹である可能性が濃厚だということです。
 
水葬をした際の足の位置です。
この美しいエピソードに救われる気がしますね。アメリカ軍にもニミッツやキャラハンのように、武士道がわかる人もいたんです。
ニミッツ提督は終戦の際に、「海軍士官が関わった限りにおいて、この戦争はファイン・ウォーだった」と発言しました。一見ファイン・ウォー(素敵な戦争)って何よ?って思ってしまいます。
 
推測するに、日米両軍ともギリギリの戦いの中にも人間性を捨て去ることなく、国のために死力を尽くした!というような意味ではないでしょうか?
 
士官室です。
 
作戦室?
 
 
 
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