ハワイ歴史巡り④【真珠湾 太平洋航空博物館】
ハワイ旅行記、真珠湾歴史巡りの続編です。
そもそも日本海軍は「日本近海で戦う想定で設計された軍隊」です。日本から5400キロ離れたハワイで戦うことなど、到底不可能と考えられていました。
1941年11月26日に択捉島単冠湾を出航した機動部隊の航跡です。
30隻もの大艦隊を隠密のまま、ハワイ近海まで持っていくことは至難の技。そのためあえて荒海で知られる「冬の北太平洋航路」を選択し、米軍に察知されないようしていました。幸い奇跡的に全く気づかれず、ハワイ近海まで到達。
12月8日(現地時間7日)早朝、この山々を目標に、帝国海軍の航空隊は突入してきました。
「ニイタカヤマノボレ1208」の新高山(現在は台湾領、当時は日本領で最高峰)と、この山々は似ているそうです。
戦艦ミズーリ見学の後は、同じフォード島にある「太平洋航空博物館」を見学します。
まず床に航空写真がありますね。
これはさっき行ったアリゾナ・メモリアルとミズーリです。
この博物館では、第二次大戦前後の機体を見学できます。
真珠湾では制空を確保。攻撃機の掩護を行いました。
九七式艦上攻撃機です。どうしてもここまでしか復元出来なかったようですね。
艦攻は敵艦への「水平爆撃」と「雷撃」を担当します。ハワイ作戦の主目的である敵艦隊殲滅を、実行する機がこの九七式艦攻でした。艦攻の向こうに「航空魚雷」が見えます。真珠湾は水深が浅いため(わずか12メートル)、当初雷撃は不可能と考えられていました。魚雷は水中でいったん沈んでから敵艦にぶち当たります。真珠湾くらいの浅い海だと、魚雷が海底に突き刺さってしまうのです。
しかしハワイ作戦の言い出しっぺの連合艦隊司令長官・山本五十六は、簡単には諦めませんでした。魚雷の改良に成功するとともに、鹿児島湾を「仮想・真珠湾」に見立てて猛訓練を行うよう、命じました。その甲斐あって、開戦の頃には日本海軍パイロットの技量は「神の技」と言われる程に成長していました。
アメリカ練習機Interstate Cadetです。
真珠湾攻撃に出くわしたにも関わらず、撃墜されず着陸に成功した機です。操縦士はコーネリア・フォートという女性でした。奇跡の機として、長く英雄視されていた機ですね。
赤いルートが日本軍第一次攻撃隊の進入路です。
第一航空隊総隊長の淵田美津雄は、ハワイ上空にカーチスがまったくいないのを見て、全軍に命じました。
「ト・ト・ト(全軍突撃せよ)」
まず高橋赫一少佐の九九式艦爆隊、続けて村田重治少佐の雷撃隊が突撃します。
そして淵田総隊長は数分後、空母赤城に有名な打電を行います。
「トラ・トラ・トラ(我、奇襲に成功せり)」
B25双発爆撃機です。ドーリットル空襲仕様のようです。
ドーリットル空襲とは、1942年4月に行われた日本本土の空襲です。
ジミー・ドーリットル大佐率いる16機のB25が、空母ホーネットから飛び立ち、日本を空襲し、そのまま中国大陸に着陸したという離れ業でした。空襲の損害は軽微だったものの、初めて帝都を攻撃された衝撃は大きく、焦った山本五十六はミッドウェー作戦に前のめりになっていきます。
SBD5ドーントレスです。
これはジョージ・ブッシュ(パパ)の海軍時代の機体のようです。
ブッシュは二度も撃墜されて、生き残ったらしいですね。
カーチスP40のフライング・タイガース仕様みたいです。
ダグラス社が開発し、第二次世界大戦期にアメリカ海軍で運用された偵察爆撃機です。
ドーントレスはミッドウェイ海戦で、日本海軍機動部隊の隙をついて急降下爆撃を敢行。
日本海軍の至宝・空母赤城、加賀、蒼龍を一気に仕留めたことで知られます。
ちょうど兵装転換時で、爆弾や魚雷に誘爆したことが日本三空母の運命を決めました。誘爆がなければ急降下爆撃くらいでやられるわけなかった。
アメリカ海軍にとっては、真珠湾で戦艦を失ったことで、逆に思い切って空母機動部隊中心に戦術転換がしやすかったのかもしれません。・・というかそうするしかなかったのかも。
一方で日本海軍は、ハワイ作戦で航空兵力の優位を証明しながら、世界最大の戦艦・大和と武蔵を保持していたことで「大艦巨砲」の考えも捨てきれず、開発が後手後手に回っていくことになります。
ブッシュは二度も撃墜されて、生き残ったらしいですね。
フライング・タイガースとは、支那事変に「アメリカ義勇兵」として参加の準備がなされていた対日戦闘部隊のことです。
太平洋航空博物館別館
別館の79号館も見学できました。
このガラスの破損は、真珠湾攻撃の時に撃たれたものだという説があります。
F 16A Viperです。
B52 Stratfortressの機首の部分です。
F15A Eagleです。