大山崎・歴史巡り【天王山、山荘美術館】
秋の京阪旅行に旅立ちます。
羽田空港
新幹線で行こうかと思いましたが、マイレージを活用するため空路を選択。
いざ、出発です。
マウント富士が見えます。
伊丹空港
いつも新幹線なので、意外にも伊丹空港は初めて来ました。
モノレールで京都方面に向かいます。
車窓から太陽の塔!こんなところにあったか。岡本太郎作。私にとっては大阪万博というより、「ブーメランスクエアーを喰らった影道総帥が吹っ飛ばされた場所」としての記憶の方が強いですね。
大阪と京都の府境にある大山崎町に行ってみたいと思います。
阪急線大山崎駅に到着しました。
大山崎町歴史資料館です。大山崎の歴史を知ることができます。千利休の茶室・待庵の複製が見られます。複製なのに撮影禁止でした。
大山崎の油売りのレリーフです。この地では平安時代の末から荏胡麻油生産が活発化し、鎌倉時代には油座が結成されました。室町時代には大山崎油は西日本一帯を独占販売するほどになりました。大山崎は幕府から自治権を認められ自治都市として独自の発展を遂げました。
その当時の様子は司馬遼太郎の「国盗物語」の中にも描かれています。美濃のマムシと呼ばれた下剋上大名・斎藤道三は大山崎の油売りから身を起こし、美濃の国盗りを成功させたとされていました。(これは現在の史料では否定されています)
豊臣秀吉所用の兜(複製)です。秀吉はこの山崎で「明智討ち」を成し遂げ、天下取りをスタートさせるのです。
JR山崎駅前まで歩いてきました。
駅のまん前に妙喜庵(待庵)があります。山崎合戦で勝利した秀吉は、この地に千利休を呼び寄せ、住まわせました。利休屋敷に設けられた小間の茶室がここ、妙喜庵に伝わることになったと考えられます。
千利休が唯一残した茶室といわれる国宝です。拝観は要予約のため、見れませんでした。
JR山崎駅からアサヒビール大山崎山荘美術館へ無料送迎バスが出ています。
大山崎山荘美術館
トンネルをくぐっていくんですね。琅玕洞(ろうかんどう)というトンネルだそうです。
アサヒビール大山崎山荘美術館は、関西の実業家・加賀正太郎が大正から昭和初期にかけ建設した「大山崎山荘」を創建当時の姿に修復し、1996年4月に開館したもの。
平成になってから修復されたんですね。
美術館本館です。
この本館は加賀正太郎が別荘として設計し、「大山崎山荘」と名づけました。
加賀正太郎は若き日に欧州に遊学しており、イギリス建築に着想を得たらしい。
栖霞楼(せいかろう)という物見塔です。山荘に先駆けて1915年に建てられたそうです。
加賀正太郎はこの塔の上から工事を監督したと言われています。
山荘美術館内に入っていきます。館内は撮影禁止ですが、ステンドグラスや壁面装飾など大正洋館の意匠は見事です。
本館2階にはテラスがあります。
美しい風景を眼下にお茶を楽しめます。(飲まなかったけど)
こちらは1階のテラスです。
山手館へと続く通路です。
ちなみに美術品ですが、モネの睡蓮コレクションなどありました。
その他、河井寛次郎、濱田庄司らの陶芸作品も楽しめました。
こちらが山荘庭園です。
四季折々の色彩美を堪能できます。
宝積寺
宝積寺というお寺に来ました。秀吉が山崎合戦の時に、一時陣所を張ったところだそうな。
宝積寺三重塔です。桃山時代。
秀吉一夜之塔?
ご本堂のようです。
秀吉出世石。ここに腰掛けたとかかな。
宝積寺石造五重塔。鎌倉時代です。
天王山
宝積寺からそのまま天王山へハイキングに行けます。
天王山と言えば、今でもスポーツや政治の大決戦を表す言葉となっています。
標高は270mですが、けっこうキツいですよ。
天王山が「天下分け目」の意味を持つようになったのはやはり羽柴秀吉VS明智光秀の「山崎の戦い」からですね。
実際には天王山の争奪戦は行われず、麓の低地での野戦が行われました。
天王山登山コースには「秀吉の道」というパネルがあります。「中国大返し」ですね。
1582年6月2日、織田信長は京都本能寺にて家臣・明智日向守の謀反にあい、非業の死を遂げました。
羽柴秀吉は毛利攻めの最中で、備中高松城を水攻めで包囲中でした。秀吉陣地に明智から毛利への密使が紛れ込み、秀吉はいち早く信長の死を知ることになります。
秀吉は京へ引き返し「明智討ち」をすると決断。信長の死を秘して、毛利と和睦します。
秀吉軍は6月7日か8日には姫路城に入り、軍備を整えます。そして13日にこの山崎の地で、光秀と天下分け目の決戦を行うのです。230Kmにも及ぶ、この歴史的行軍を「中国大返し」と言います。まるでナポレオンの軍隊みたいですね。
秀吉の旗立松です。秀吉は味方の士気を高めるため、この松に軍旗を掲げたそうです。
今の松は3代目らしいけど。
旗立松展望台です。
一望して山崎が交通の要衝と分かりますね。
本能寺の変当時、信長配下の武将は各地に転戦しており、すぐには上洛出来ないはずでした。
ところが秀吉軍が6月10日には尼崎にまで戻って来ていると知った光秀は、慌てて仲間を募ります。
しかし頼みとした筒井順慶や細川藤孝らは日和って、参陣しませんでした。やむなく光秀軍一万六千は6月12日に天王山東側に着陣。
一方、秀吉は信長三男・信孝や丹羽長秀、高山右近、中川清秀らを味方につけ、総勢三万を揃えました。
光秀軍の倍の戦力を誇る羽柴勢は優位に戦いを進めます。
羽柴勢は淀川沿いの激戦を制し、光秀は敗走します。
わずか三時間ほどで勝負は決まりました。
光秀は本拠地の近江坂本城に戻る途上、山科小来栖村で落武者狩りに遭い、非業の死を遂げました。
こちらは禁門の変十七烈士の墓です。
時代は飛んで、幕末の1864年。過激な尊皇攘夷を疎まれた長州藩は京を追われます。新選組による池田屋事件も起こり、長州軍は激昂。京に攻め入ります。これが禁門の変です。
しかし薩摩・会津の猛攻に耐えられず、長州軍は敗走。長州側の十七人の志士は、この天王山山中で自害して果てます。
長州の指導者で、元久留米藩士の真木和泉の墓です。
こちらは酒解神社です。
ご本堂。
鎌倉時代の神輿庫が今も残ります。
ここが天王山山頂部です。
ここに秀吉は山崎城を作り、大阪城が出来るまでの拠点とします。
まさに山崎・天王山が秀吉の天下どりの第一歩となったのです。
大山崎が一望できる絶景かな。
天王山を下山していきます。
離宮八幡宮
山崎駅そばの離宮八幡宮にやってきました。平安時代初期に清和天皇の命で、宇佐八幡宮から遷座されたとのこと。
ここは惣門です。寛永期に再建されたものの貴重な生き残りです。多くは禁門の変で焼失してしまいました。
塔心礎です。かつてあった五重塔の基礎の部分らしい。
菅原道真の腰掛け石。
大山崎油座の元締めになったのが、この離宮八幡宮でした。
離宮八幡宮の神官たちは神人と呼ばれました。
中世には離宮八幡は油の製造・販売の独占権を認められます。
【追悼・水島新司】新潟市漫画巡り
水島新司氏急逝の報が飛び込んできて驚きました。水島氏の漫画には(80年代までは)散々楽しませていただきました。ご冥福をお祈ります。7〜8年ほど前に故人の地元である新潟県を旅行した時のレポートを再掲します。
水島新司マンガストリート
新潟市の中心・古町通りに水島新司のキャラ銅像が立ち並びます。
漫画家の水島新司氏は新潟県出身。
これぞ水島新司マンガストリート。
景浦安武(あぶさん)
南海ホークスのしがない代打屋あぶさんと、パリーグのサムライ達の友情と対決が見ものでした。
途中から超人化して、三冠王とか打率四割とかやり出して世界観をぶち壊しにしてしまった。
水原勇気(野球狂の詩)
のちに木之内みどりや斉藤由貴が演じました。今なら稲村亜美さんは適役かも。
里中智(ドカベン)
山田太郎(ドカベン)
岩田鉄五郎(野球狂の詩)
初期の鉄五郎ですね。「野球狂の詩」初登場時。でも、これ50歳なんですよ。
80歳だろ、これは。
殿馬一人(ドカベン)
優勝ホームラン秘打円舞曲別れ
あとは弁慶高校戦で武蔵坊のライナーをバシッととったのも凄かった。
岩鬼正美(ドカベン)
これは最高に迫力があった対決だった。
ドカベンも「大甲子園」までは最高でした。
目白が選ぶ水島漫画ベスト9
投手 藤村甲子園(南波)
捕手 山田太郎(明訓)
一塁手 軍司(新宿メッツ)
二塁手 殿馬(明訓)
三塁手 岩鬼(明訓)
遊撃手 千藤(東京メッツ)
右翼手 武蔵坊(弁慶)
中堅手 足利(いわき東)
左翼手 景浦(南海ホークス)
白山神社
新潟市を代表する神社にやってきました。
雪の神社は風情がありますねえ!
ちょうど受験シーズン。困った時は神頼みで。
大河・信濃川を渡ります。
巨大な橋は萬代橋です。
ドカベン・ラッピングバスを見つけました。
新潟市歴史博物館みなとぴあ
雪を避けるためには博物館系が最適か。
港町・新潟の側面を紹介しています。幕末の通商条約では新潟も開港することになりました。
明治時代の初代萬代橋150分の1模型です。
長さ782メートルの木造橋でした。
新潟市は原爆投下予定地でした。「原爆疎開」の布告です。
終戦時、新潟市はほぼ無人状態だったと言われます。
原爆投下予定地となったのは、そもそも新潟が米どころだったから。
湿田の刈り取り風景ですね。
唐箕などの伝統的な農具も見れました。
博物館ではレトロな建築も見学できます。旧第四銀行住吉町支店です。
日本間もありましたよ。
1858年の修好通商条約により、神奈川、函館、長崎、兵庫と並んで開港場の一つに選ばれた新潟は1868年に開港しました。
翌年の1869年に、関税業務を行う役所として、後に新潟税関となる新潟運上所がつくられました。
旧新潟税関には、信濃川に面して、船からの品物を揚げる荷揚げ場の石段が設けられていました。
犬夜叉バス!高橋留美子も新潟だったのか。
JR新潟駅です。
上越新幹線で帰ります。
ローマ歴史巡り⑨【パンテオン、サンタンジェロ城】
イタリア、ローマの旅行記です。
パンテオン
パンテオンにやってきました。
パンテオンは現存最古のローマ建築の遺構です。
初代ローマ皇帝アウグストゥスの側近・アグリッパ将軍によって、紀元前25年に建てられたのが最初だそうです。ラテン語でアグリッパ(AGRIPPA)と書かれてますね。
火災によって初代のものは焼失しましたが、紀元118年頃にハドリアヌス帝によって再建されたものが現存しているのです。
2000年近くもほぼ完全な姿を保っていることになりますね。恐るべしはローマン・コンクリートの耐久性です。
パンテオンはセメントやポッツオーリという土地の火山灰を原料としています。丈夫な素材なんですかね?現代のコンクリートは中に鉄筋を入れている分、かえって鉄の腐食で傷みやすいのだとか。
柱は16本あります。太さは4.5メートルあるそうです。
さあ、入場してみます。
クーポラは高さ・幅ともに、約43.3メートル。
直径9メートルの天窓が内部唯一の光源となっています。「パンテオンの目」と言われています。
ドームは上に行けば行くほど軽い構造になっています。
考え抜かれた設計で造られているので、2000年保つんですね。
天窓は日時計の役割も果たしていました。ちょうど正午に正面入口に陽が当たるように作られています。その時間になると、光に包まれながら皇帝アウグストゥスが入場してくる演出になっていたのです。
これがラファエロの墓です。37歳の若さで死去したラファエロですが、死後ここに埋葬するよう遺言しました。
美しい聖母子像を多く残したラファエロにふさわしいお墓です。
これは初代国王ヴィットリオ・エマヌエーレ二世の墓です。
なおパンテオン前では、毎年8月6日と9日に「原爆忌の式典」が行われているそうです。動画を見てみたんですが、軍楽隊による演奏と「折り鶴の少女」をイメージしたバレエ演舞など、きちんとしたものでした。遠いローマで広島・長崎の悲劇を悼んでくれているのは有難いですね。日本の左翼市長や左翼団体に政治利用されて汚染されたアジ式典よりよっぽどマトモだ。
ナヴォーナ広場
もともとは1世紀のドミティアヌス帝の時代に、競技場としてつくられたそうです。すごく細長い広場です。
中央には古代ローマ時代のオベリスク(記念碑)がそびえます。これは旧アッピア街道のマクセンティウスの競技場から出土したものです。
オベリスクを囲むのは「四大河の噴水」です。この噴水はローマ教皇インノケンティウス十世の命によって、ベルニーニが制作しました。(像は弟子の手による)
この四体像はナイル川(アフリカ)、ガンジス川(アジア)、ドナウ川(ヨーロッパ)、ラプラタ川(南アメリカ)を表しています。
ナイル川の像がミステリアスな雰囲気なのは、水源が当時わかってなかったからだとか。
ラ・プラタ川の像です。
何かに怯えた様子ですね??
この像が顔を変なポーズをしている理由は、このサンタニェーゼ・イン・アゴーネ教会によると言われます。この教会の設計はベルニーニのライバル・ボッロミーニでした。
ベルニーニとしては「ボッロミーニがつくった教会なんてすぐ倒れる。それを防ぐために私の像に防御のポーズを取らせてやるんだ」という嫌味のつもりだとか。ただしこのエピソードは事実ではないのです。なぜなら噴水は教会より早く出来ていたから。
こちらはガンジス川の像です。
ドナウ川の像です。
ネプチューンの噴水です。
16世紀に建築家のデッラ・ポルタによってつくられました。
デッラ・ポルタが作ったのは水盤だけで、彫刻は19世紀に付け加えられたものです。
ムーア人の噴水です。
こちらもデッラ・ポルタによって水盤がつくられました。
中央の彫刻はベルニーニの下絵をもとに1654年にアントニオ・マーリがつくりました。
ムーア人ってなんだかわかりませんでしたが、北アフリカの人々のようです。イタリア半島と北アフリカは近いので、いろいろ関わりがあったのでしょうね。
カンポ・デ・フィオーリ広場
ナヴォーナ広場そばの青空市場にやってきました。朝市で有名な市場で、お土産を購入する場としてもオススメです。
野菜、果物、ワイン、オリーブオイルなどさまざまなものが売ってます。
かつてはお花畑だったため、フィオーリ(花)の名前が残ります。また17世紀はじめには、処刑場として使われた暗黒の歴史もあるそうです。
Da Pancrazio
カエサルがブルータスらに刺殺された跡地にある(という説がある)レストランに行って見ました。
確かに雰囲気はある・・。
地下が古代劇場の跡だという噂を聞きました。
なるほどそれっぽいですね。
これがカエサルですね。長いローマ史の中でも最大のスターです。
「賽は投げられた」「ブルータス、お前もか?」などの名セリフで知られる英雄です。
カエサルは紀元前44年、元老院議員どもに散々に刺殺されました。「ブルータス、お前もか・・!」の名場面が再現されてます。
サンタンジェロ橋
最後の目的地はサンタンジェロ城です。ちょっと距離があるのでバスで移動します。
サンタンジェロ橋の入り口です。橋の左側の像は聖ペテロ。右側は聖パウロのようですね。
テヴェレ川にかかるサンタンジェロ橋は、サンタンジェロ城に向かっています。
まさに天国へ向かう橋。
「ローマの休日」ではこの川の水上のお店で、ヘップバーンたちが暴れたんでしたね。
サンタンジェロ橋には、左右に天使像が並んでいます。それぞれ聖遺物を持っています。
これらの天使像は、ベルニーニの工房で作られたものです。ベルニーニ本人が作った二体の天使像だけはレプリカだそうで、オリジナルはサンタ・アンドレア・デッレ・フラッテ教会にあります。
「聖骸布」を持つ天使。
これはキリストが磔刑に処せられた十字架。
これはキリストを突いた槍。
サンタンジェロ城
サンタンジェロ城にやってきました。
サンタンジェロ城は紀元135年、ローマ五賢帝ハドリアヌス帝が自らの霊廟として建設を開始し、139年に完成しました。またの名を聖天使城といいます。
サンタンジェロ城は、内部にも入場できます。
とりあえずてっぺんまで登っていくつもりです。
ローマ歴代皇帝の霊廟として使用されたのちに、中世では軍事施設として使用されました。
14世紀以降は歴代のローマ教皇によって要塞として強化され、また同時に牢獄や避難所としても使用されました。
確かに軍用だね。
1527年の神聖ローマ皇帝軍による「ローマ劫掠(略奪)」の際、ローマ教皇クレメンス七世ら3000人がこの城に立て籠りました。
クレメンス七世はメディチ家出身の教皇。しかし結局は暴虐の限りを尽くす皇帝軍に、なす術もなく降伏しています。
これは聖ミカエルの大理石像。16世紀にラファエロ・ダ・モンテルロが制作しました。
かつてはこの像がお城のてっぺんに聳えていました。
ゴールまでもう少しです。
16世紀のローマ教皇・パウルス三世の図書室です。
グロテスク模様の天井が美しい。ギリシャ神話を題材とした天井画が見られます。
テラスに到着しました。
サンタンジェロ城のテラスからは、ローマの街並みを見ることができます。
城の頂上の「大天使ミカエルの像」を近くから見ることができました。
18世紀に鋳造されたブロンズ像です。これは2代目のミカエル像です。
この剣を鞘に収めるポーズは、ペスト流行の終焉を意味するものとされました。
6世紀末にローマを襲ったペスト大流行の際に、時の教皇グレゴリウス一世がそう意味付けした故事に由来します。
サン・ピエトロ大聖堂が見えます。
大聖堂へは城壁の通路で移動できるのかな?映画「天使と悪魔」では移動してたね。
サンタンジェロ橋が見えます。
パウルス三世は本名がアレッサンドロ・ファルネーゼということから、アレクサンドロス大王など英雄たちを装飾壁画に使っています。
2世紀、ローマ皇帝霊廟時代の模型です。
この窪みの部分にハドリアヌス帝の像が置かれていました。像の大半は失われてしまいましたが、頭部だけはバチカン美術館に現存します。
なかなか見ごたえありました。
サン・ピエトロ大聖堂がまた見えた。
これで観光は終わり。晩ご飯食べて帰国の準備です。
ブォーノ!(うまっ!)
フィウミチーノ空港
いよいよ帰国の朝が来て、ローマともお別れ。フィウミチーノ空港に到着しました。
フィウミチーノ空港は別名レオナルド・ダ・ヴィンチ空港とも言います。
確かにレオナルドっぽいですね。
帰りもフィンランド航空でローマを発ちます。
ヘルシンキ空港
行きと同じくヘルシンキ経由でしたが、なんとヘルシンキは霙が降ってました。
フィンランドはムーミンの国。
ムーミンショップにムーミンカフェもあります。ヘルシンキから乗り換えて、成田へ。
機内で「アメリカン・スナイパー」見て号泣しました。2回目なんだけど。クリント・イーストウッドは、フォードやホークスと並ぶアメリカ男性映画の巨匠ですね。
成田国際空港
成田に戻ってきました。
成田エクスプレスに乗ってみたかったので、使ってしまった。
ローマ歴史巡り⑧【トラステヴェレ、カラヴァッジョ教会】
イタリア、ローマの旅行記です。
- サンフランチェスコ・ダッシジ・ア・リーパ教会
- サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ教会
- 夜のナヴォーナ広場
- ポポロ広場
- サンタマリア・デル・ポポロ教会
- スペイン広場
- トレヴィの泉
- サンタゴスティーノ教会
- サン・ルイジ・ディ・フランチェージ教会
トラムに乗って、ローマの下町トラステヴェレ地区にやってきました。
トラステヴェレは「テヴェレ川の向こう側」という意味です。
サンフランチェスコ・ダッシジ・ア・リーパ教会
まずはサンフランチェスコ・ダッシジ・ア・リーパ教会にやってきました。
ちょっと小さめの教会です。
アッシジの聖人フランチェスコが宿泊した地に、この教会が建てられました。現在の教会は17世紀の後半につくられました。
この教会が有名なのは、ベルニーニ作の彫刻があるからです。
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ「福者ルドヴィカ・アルベルトーニ」
暗くて遠くて、よく見えないし、よく写せなかった。もう少し早い時間に来た方が良かったですね。次来るときは朝イチで来ます。
生涯を貧しい人々のために尽くした女性・ルドヴィカ・アルベルトーニは死後、福者に列せられました。今まさに天に召される瞬間ですが、官能的に刻まれています。この彫刻をベルニーニは80歳近い年齢で刻んだのです。
実はミサ中。しかも工事中のところを特別に見せてもらえましたので、文句を言ったらバチが当たります。
マールテン・デ・フォス「無原罪の御宿り」
1555年頃の作品です。
シモン・ヴーエ「聖母の誕生」
アントニオ・デッラ・コルニア「聖母被昇天」
トラステヴェレの大通りの方に向かっていきます。
トレステヴェレは庶民的な下町です。
若者が夜に集まる街でもあります。今18時くらいですが、だいたい20時くらいから活気が出てくるようです。
サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ教会
サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ教会は4世紀半ばに完成された、おそらくローマの最初の公式教会堂と言われます。
ファサードのモザイクが見ものです。「玉座の聖母子」13世紀の美しいモザイクです。中央の聖母マリアがイエスに授乳しています。
基本的には12世紀の再建当時の姿を止めています。ロマネスク様式に分類されます。
見事な格天井はドメニキーノがデザインしたものです。
後陣の12世紀のモザイク画。「キリストと聖母」。キリストは聖母の肩に手を置いています。
トレステヴェレの夜は活気づきます。
外国の若者の街らしく、落書きが多いですね。
DAR POETAに入って見ました。
トラステヴェレのピザの有名店らしいですね。
大きくて食べきれませんでした。
噴水の広場のところで、ストリート・ミュージシャンのパフォーマンスやってた。
ボブ・マーリーの「ノーウーマン、ノークライ」やってた。まるで夜祭の雰囲気で楽しい。
テヴェレ川です。遠くにサン・ピエトロ大聖堂が見えます。
夜のナヴォーナ広場
ライトアップされると一味違いますね。
もう遅いので宿に帰ります。
さて、翌朝もローマの街巡りをしていきます。まずは地下鉄でポポロ広場へと向かいます。
フラミニーノ駅です。
ポポロ広場
ここがポポロ広場です。ポポロとは市民の意味らしいですね。
17世紀に建設された双子の教会が並びます。
フラミニアのオベリスクです。初代皇帝アウグストゥスがエジプトから持ち込みました。
ピンチョの丘はローマを眺望できるスポット。
これはポポロ門で、北からのローマへの巡礼者の入り口となりました。
サンタマリア・デル・ポポロ教会
その隣がサンタマリア・デル・ポポロ教会です。
ファサードは修復中ですね!その名の通り、市民の寄付によってつくられたとか。
主祭壇です。
主祭壇に祀られる「市民の聖母」です。
チェラージ礼拝堂です。
アンニーバレ・カラッチ「聖母被昇天」
本来この礼拝堂はすべてアンニバーレが完成させる予定でしたが、別の仕事が入ったため中断。後任を引き受けたのはカラヴァッジョでした。
カラヴァッジョ「聖ペテロの逆さ磔」
アンニバーレの両脇をカラヴァッジョが飾ります。
キリストの一番弟子であるペテロは、キリストの気持ちを知るため、さらに苦しい逆さ磔を望み殉教します。
カラヴァッジョ「聖パウロの回心」
ユダヤ教徒サウロはキリシタン迫害のため、ダマスカスへ向かう途中に天からの光に打たれ、一瞬で回心します。そして名前をパウロと改め、聖人となっていきます。
キージ家礼拝堂です。ラファエロによって設計された礼拝堂です。
またラファエロは天井のモザイクの下絵も描いているそうです。
セバスティアーノ・デル・ピオンボとフランチェスコ・サルヴィアーティ「聖母マリアの誕生」
1555年の作品です。
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ「獅子と預言者ダニエル」
獅子の洞窟に投げ込まれながらも、喰われなかった預言者ダニエルです。
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ「ハバククと天使」
預言者ハバククの髪を天使がつまみ上げます。獅子の洞窟にいるダニエルに食事を届けるよう伝えています。
ロレンツェット「預言者エリア」
1540年頃の作品です。
ロレンツェット「預言者ヨナ」
1540年頃の作品です。
スペイン広場
ようやく超有名どころに来ました。この近くにスペイン大使館があるため、スペイン広場と呼ばれます。
手前がスペイン階段。奥にトリニタ・デイ・モンティ教会が見えます。
映画「ローマの休日」でヘップバーンがジェラートを食べた場所ですね。
有名な場面ですが、現在は階段の座り込み、飲食は禁止されています。警官がたくさんいて、座りそうな姿勢をした瞬間に、すごい勢いで注意されます。確かに座ってるやつはいない。
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ「舟の噴水」
トレヴィの泉
次にトレヴィの泉にやってきました。ここも有名観光地です。
1762年に建築家ニコラ・サルヴィによって完成されました。
世界中から観光客が集まります。
中央には水の神ネプチューン(ポセイドン)。左右に女神を従えています。
「ローマへもう一度戻りたいなら、この泉で後ろ向きにコインを投げよ」という有名な言い伝えがありましたね。
コインはどこの国のものでもご利益はあるらしいですね。本当かね?
トレヴィでジェラート食べました。いくらローマでも今回食べ過ぎでしたと後で反省。
トレヴィといえば、映画「甘い生活」のアニタ・エクバーグの名場面を思い出します。ただし真似して泉に入ると高額の罰金を取られるそうなので真似しないよう。
ヘップバーン土産も買ってみました。
ローマを訪れてますますヘップバーンが好きになりました。銀幕の向こうで彼女たちは永遠に生き続けます。
ピエトラ広場です。
大理石の11本のコリント式列柱は、145年にハドリアヌス帝の神殿として建てられました。
ここがモンテチトーリオ宮で、現在イタリア国会の下院として使われています。オベリスクは紀元前6世紀にエジプトでつくられたもの。建物はベルニーニの設計。
サンタゴスティーノ教会
15世紀末につくられた初期ルネッサンス教会です。
ここも修理中です。
聖堂に入ってすぐ左手にカヴァレッティ礼拝堂があります。
カラヴァッジョ「巡礼者の聖母(ロレートの聖母)」
1605年作。巡礼者のもとに、突如聖母子が出現する瞬間ですね。聖母子はやたら現実的ですが、聖母のモデルはカラヴァッジョの愛人(娼婦)だとか。悪童カラヴァッジョの本領発揮という感じですね。
この巡礼者の汚い足の裏が、カラヴァッジョのリアリズムです。
ラファエロ「預言者イザヤ」
フレスコ画です。20世紀に修復されてラファエロの色彩が蘇ったそうです。
ラファエロの絵の下にはアンドレア・サンソヴィーノの「聖アンナと聖母子」の像が見えます。
ヤコポ・サンソヴィーノ「安産の聖母」
ローマの妊婦の信仰を集めている聖母像だそうです。お供え物が多く見られますね。
無事出産を終えた妊婦さんたちの感謝を集めてるようです。
サン・ルイジ・ディ・フランチェージ教会
この教会はその名のごとく、ローマ在住フランス人のための国民教会だそうです。
修理中ですかね。
ブルボン王家の紋章が見えます。ちなみにこの教会の建設には、フィレンツェのメディチ家からフランス王家に嫁いだカトリーヌ・ド・メディシスが多大な援助をしています。
この教会の見所は何と言ってもコンタレッリ礼拝堂のカラバッジョのマタイ連作ですね。
カラヴァッジョ「聖マタイと天使」
もともとフランス人のマシュー・コントレー枢機卿の依頼で別の画家が描くはずでしたがその画家の多忙のため、まだ無名だったカラヴァッジョが抜擢されました。カラヴァッジョのパトロンだったデル・モンテ枢機卿の尽力があったと言われています。
カラヴァッジョ「聖マタイの召命」
1599〜1600年のカラヴァッジョの出世作です。発表されるや否や大評判となり、教会には人が押し寄せました。バロック芸術の幕開けと言われる記念碑的作品です。
右側で徴税人マタイを指差してるのがイエス。マタイはうつむいて金を数えてる男と言われています。
カラヴァッジョ「聖マタイの殉教」
1600年の作品です。
教会で説教中にフンドシの刺客に襲われた聖マタイ。聖マタイはよく見ると天使から殉教の印である棕櫚の葉を受け取っています。ちなみにフンドシ男の左奥にカラヴァッジョ自身が顔をのぞかせています。
チャールズ・メリン「幼きキリストへの崇拝」
プラウティッラ・ブリッチ「フランスの聖ルイージ」
13世紀のフランス王で、ブルボン家の祖となったルイ9世を描いています。この教会もそもそも聖人となったルイ9世に捧げられた教会なのです。
プラウティッラ・ブレッリは女流画家です。
なるほど。ジャンヌ・ダルク像があるのはフランスだからか。
ドメニキーノによる天井画です。
中央礼拝堂です。
フランチェスコ・バッサーノ・イル・ジョーヴァネ「聖母被昇天」
1589年作の主祭壇画です。
この教会はフランス語でミサが開かれますが、ミサの際にこのパイプオルガンが使用されます。
ローマ芸術巡り⑦【ボルゲーゼ美術館】
イタリア、ローマの旅行記です。
今回は長年の悲願だったボルゲーゼ美術館を鑑賞していきます。ボルゲーゼ美術館は、その素晴らしいルネッサンスやバロックのコレクションで、ローマでも必見の美術館です。
ヴェネト通り
ボルゲーゼ美術館へはヴェネト通りを散策していきます。
ヴェネト通りはローマで最もエレガントな並木道です。
大使館や高級ホテル、カフェなどが並木の両側に広がります。
フェリーニの映画「甘い生活」の舞台になったエリアとしても有名ですね。
まさにドルチェヴィータの世界!
ヴェネト通りを上ると「アウレリアヌスの城壁」が見えてきます。3世紀後半に造られた城壁です。この時代のローマはいわゆる「軍人皇帝」の時代で、下克上の戦乱期でした。アウレリアヌスは北方異民族の南下を警戒し、これらの城壁を築かせたのです。
ピンチャーナ門をくぐると・・
ボルゲーゼ公園です。
もともとは17世紀初めに、シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の別荘として造営されました。
またジェラート食べた笑 10月なんですけど、日差しはけっこうキツかったですね。
ムゼオ・ボルゲーゼ通りを歩くと15分くらいでボルゲーゼ美術館に到着します。
ボルゲーゼ美術館は特殊な美術館で「完全予約制・日時指定制」です。予約する段階で希望時間帯を選択します。鑑賞の制限時間は2時間で、完全入れ替え制になります。
公式サイトでネット予約しようと思ったのですが、すでに売り切れ。で、ちょっと割高になりましたがベルトラでやっとゲットすることができました。バウチャーがメールで送られてくるので、事前にプリントしておきます。
ボルゲーゼ美術館
だいたい指定時間の30分前くらいに到着するのが普通のようです。
まずは入り口から半地下の切符売り場で、バウチャーを提示してチケットをゲットします。また入り口にクロークがあるので荷物は預けないといけないようです。小さな荷物も「預けろ」と言われて、一瞬差別?イジメ?とか思ったんですが、そういうルールみたいです。
1階のロッジアで待機してると指定時間になりました。係員の指示に従って、いよいよ入館です。
ボルゲーゼ美術館は、もともと名門貴族シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿のプライベート・コレクションでした。シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿は、ベルニーニらバロック時代の芸術家たちの大パトロンとして有名です。
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ「シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の彫像」
これがバロックの帝王・シピオーネです。コレクション収集のためには、恫喝まがいのことまでしたというから恐るべき執念です。それだけの権力も持っていたのでしょうね。
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ「ルイ14世騎馬像の修作(テラコッタ)」
ベルニーニはルイ14世に招かれ、渡仏したこともあります。ルイ14世の胸像や騎馬像は今もフランスで見ることができます。
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ「教皇パウルス5世ボルゲーゼ像」
ボルゲーゼ家出身のローマ教皇です。甥のシピオーネを枢機卿に引き上げた人物。伊達政宗家臣でローマを訪れた支倉常長にも謁見しています。
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ「乳を飲ませる山羊」
おそらく10代の頃につくられた初期作品です。
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ「自画像」
成長に伴い3枚の自画像が並んでいます。
「ベルニーニはローマのために生まれ、ローマはベルニーニのためにつくられた」と賞賛されたバロック芸術の巨匠です。
10代から才能を認められ81歳の死の時まで、その圧倒的な彫刻、建築の才能でローマを彩りました。
ヘラルト・ファン・ホントホルスト「The Concert 」
1623年頃の作品です。オランダ人画家ですが、ローマに修行に来て、同時代の最大の画家・カラヴァッジョの影響を受けました。
ランフランコの回廊と呼ばれる部屋の天井画です。
第16室の天井画です。
ヤコポ・ズッキ「アメリカ発見の寓意」
1585年頃の作品です。この絵を見た三島由紀夫は「ギュスターヴ・モローみたいだ」と称賛したそうです。
ヤコポ・ズッキ「アモールとプシュケ」
1589年の作品です。「見てはいけない」と言われていた謎の恋人の姿をつい照らして見てしまったプシュケ。失望したアモル(キューピッド)は消えてしまいます。古今東西、見てはいけないものを必ず見てしまうパターンの話が存在しますね。
ヤコピーノ・デル・コンテに帰属する「クレオパトラ」
16世紀の作品です。紀元前31年のアクティウムの海戦で敗れ、ローマ軍に追い詰められたクレオパトラは、毒蛇に身体を噛ませて自害しました。
マルコ・ピーノ「キリストの復活」
1569年から76年の作品です。
ヘラルト・ファン・ホントホルスト「スザンナと長老たち」
1655年の作品です。旧約聖書ダニエル書に収められたこの説話は、16世紀頃からエロ画の格好の口実として好んで使われました。
ペッレグリーノ・ティバルディ「幼きキリストへの崇拝」
1548年の作品です。ティバルディはロンバルディア出身の画家・建築家で、マニエリスムの影響を受けています。
ポンぺオ・バトーニ「聖母子」
1742年ごろの作品です。バトーニは18世紀のローマで活躍した画家です。グランドツアー(英国人富裕子女のイタリア文化留学)の時代に、イギリス人対象の肖像画を多く手がけ、人気を博しました。
イル・サッソフェッラート「聖母子」
イタリアのバロック期の画家です。ラファエロやグイド・レーニに影響を受けた優しいタッチが印象的です。
カルロ・ドルチ「聖母子」
17世紀中頃の作品です。フィレンツェ出身の宗教画家で、甘美な聖母像の制作に優れていました。
「アマゾンとギリシャ人、野蛮人」
アンニーバレ・カラッチ「聖家族」
1608年から09年頃の作品です。ボローニャを拠点に活躍したカラッチ一族の中心がアンニバーレでした。
アントニオ・カラッチ「ジョーヴェとジュノーネ」
1612年頃の作品です。ゼウスとヘラのことです。アントニオはアゴスティーノ・カラッチの息子さん。
ドメニキーノ「ディアナの狩り」
1616年から17年頃の作品です。ドメニキーノもボローニャ出身で、アンニバーレ・カラッチに学びました。
ドメニキーノ「クーマのシビッラ」
1616年から17年の作品です。クーマ(クーマエ)とはナポリ近郊にあった古代ギリシャの植民都市。シビッラとはアポロンの神託を受け取る巫女のことです。
アゴスティーノ・カラッチ「シエナの聖カテリーナの光悦」
16世紀後半の作品です。アゴスティーノはアンニバーレのお兄さんです。カテリーナ(カタリナ)は14世紀のイタリア・シエナの修道女。彼女は徹底した自己鍛錬の業をしたことで知られ、日課として睡眠と食事を削っていました。また当時ローマ教皇庁が移っていたアヴィニヨンにおもむき、ローマへの帰還を働きかけました。
フェーデ・ガリツィア「ユディト」
1601年の作品です。フェーデ・ガリツィアはミラノ出身の女流画家です。
ユディットは自分自身をモデルにしているそうです。フェーデは未婚のまま、1630年のミラノのペストの流行で亡くなったと言われています。
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ「聖愛と俗愛」
1514年頃の作品です。ティツィアーノの初期作品ですが、代表作の一つです。
着衣の女性が「地上の愛」、裸体の女性が「天上の愛」を意味する寓意画である、と一般には言われています。
水槽のヘリに右手を置いた女性は、左手には香炉を持っているようです。
服を着た方の女性は、裸の女性と同一人物ではないかと言われています。ティツィアーノの絵でよく見る人ですね。
1995年に洗浄され、鮮やかに生まれ変わりました。ちなみに鳴門の大塚国際美術館では、この作品の「洗浄前」「洗浄後」の両方の複製画を見ることができます。
アントネッロ・ダ・メッシーナ「男の肖像」
1474年から75年頃の作品です。アントネッロはシチリア島出身で、晩年にはヴェネツィアを訪れ、初期ヴェネツィア絵画に影響を与えています。
ロレンツォ・ロット「聖母子とアンティオキアの聖イグナチオと聖オノフリオ」
1508年の作品です。
ジョヴァンニ・ベッリーニ「聖母子」
1510年頃の作品です。ヴェネツィア派第一世代の巨匠の、晩年の作品のようです。
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ「キューピッドに目隠しをするヴィーナス」
1565年頃の作品です。寓意画のようですが、どのようなメッセージが込められているのかは諸説あるそうです。
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ「キリストの鞭打ち」
1560年頃の作品です。
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ「聖ドメニコ」
1565年頃の作品です。
パオロ・ヴェロネーゼ「洗礼者聖ジョヴァンニの説教」
1562年頃の作品です。ヴェロネーゼは16世紀ヴェネツィア派の巨頭。
ティツィアーノらヴェネツィア派の作品が充実しているのも、ボルゲーゼの売りの一つです。
ブロンズィーノ「洗礼者聖ジョヴァンニ」
1562年頃の作品です。洗礼者聖ヨハネとはまったく思えぬ、若々しく逞しい男性が描かれています。
ラファエロ・サンティ「一角獣を抱く貴婦人」
1506年頃の作品です。伝説の一角獣を抱く女性が「モナリザ」の影響を受けているのは明らかですね。後にこの作品は加筆、改竄され、「アレクサンドリアの聖カタリナ」として描き変えられていました。女性の膝の上には一角獣でなく、聖カタリナを示す車輪の破片が置かれていたのです。(1930年代に行われた修復で加筆は除去)
ラファエロ・サンティ「男の肖像」
1502年頃の作品です。
ペルジーノに帰属「聖セバスティアーノ」
1490年の作品です。これも人気のテーマです。ちなみに「〜に帰属」とは、断定はできないがその人の作品と推定されるという意味です。
ペルジーノ「聖母子」
16世紀初めの作品です。ペルジーノは若き日のラファエロの師匠としても知られます。
フラ・バルトロメオ「幼きキリストへの崇拝」
1495年頃の作品です。フラは修道士を意味しますが、フィレンツェのサンマルコ修道院に属していました。ちょうどレオナルド、ミケランジェロ、ラフェエロがフィレンツェに集結していた時期で、バルトロメオもそれぞれから影響を受けています。
ボッティチェッリと工房「聖母子と聖ジョヴァンニーノと天使たち」
1488年頃の作品です。トンドという円型画はルネッサンス期に流行しますが、ボッティチェリも優れたトンドを多く残しています。
ラファエロ・サンティ「十字架降下」
1507年頃の初期作品です。ペルージアで実際にあった若者の惨殺事件と重ね合わせて描かれているそうです。
全く無力化したキリストを運搬する聖ニコデモ。キリストに寄り添う女性はマグダラのマリアです。
ブレーシャニーノ「ヴィーナスと二天使」
1520年から25年頃の作品です。
ルーカス・クラナッハ(父)「ヴィーナスと蜂の巣を持つキューピッド」
1531年頃の作品です。この作品も欧州のあらゆる美術館で見かけます。それだけ人気で、量産されたということでしょうね。
ミケーレ・ディ・リドルフォ・デル・ギルランダイオ「ルクレツィア」
1565年頃の作品です。画家の本名はミケーレ・トシーニ。リドルフォ・ギルランダイオの工房で修行し、一派の名前を名乗りました。
ミケーレ・ディ・リドルフォ・デル・ギルランダイオ「レダ」
1565年頃の作品です。この白鳥の正体はゼウス(ユピテル)です。ゼウスは好色な神で、何にでも化けて美女に接近しようとします。
ニコロ・デッラバーテ「女性の肖像」
16世紀中頃の作品です。イタリアの画家ですが、後半生をフランスで過ごし、フォンテーヌブロー派を形成しました。
パルミジャニーノ「男の肖像」
1528年から30年の作品です。
第10室の天井画です。
ニコラス・コルジエ「ジプシーの少女」
紀元前4世紀のトルソーに、フランス人彫刻家が1607年から12年にかけて、顔や腕を付け足したものです。
ジローラモ・ダ・トレヴィーゾ・イル・ジョーヴァネ「微睡むヴィーナス」
1520年から30年の作品です。
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ「プロセルピナの掠奪」
この煌びやかな空間は「皇帝の間」といいます。その中心に置かれるのはベルニーニの作品です。
1621年から22年の作品です。
この作品はシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の依頼で制作されました。ベルニーニはこの時、弱冠23歳でした。
女神プロセルピナを連れ去ろうとする冥界の神プルート。
ギリシャ神話の一場面を切り抜いたかのような見事な作品です。
大理石とは思えない!プロセルピナの柔らかな肌に食い込む指。
昔、何かの本で見て驚いて、いつかローマで実物を見たいと思ったものです。
首がいっぱいあるワンコは冥界の犬ケルベロスか。
彫刻といい絵画といい、「レダと白鳥」をテーマにした作品は多く見かけました。
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ「アイネイアースとアンキーセス」
1618年から20年の作品です。これもシピオーネ・ボルゲーゼ 枢機卿の命でつくられた作品です。
男が爺さんを持ち上げていますね。
これはギリシャ神話およびローマ神話を元にした作品です。
トロイア戦争で敗れたトロイアの武将・アイネイアースが父アンキーセスを背負い、イタリア半島に落ち延びようとしている場面です。
この英雄アイネイアースの子孫が、ローマを建国した一族になるとの伝承が普及していきました。
ローマ初代皇帝アウグストゥスもこれを利用し、ユリウス一族はアイネイアースの子孫であるという神話を広めました。
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ「真実」
1645年から52年の作品です。
ただしボルゲーゼに来たのはわりと最近の1924年だそうです。
ジョヴァンニ・アントニオ・ホウドン「洗礼者聖ジョヴァンニ」
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ「アポロンとダフネ」
1622年から25年の作品です。
この作品はシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の依頼で制作された最後の作品です。
ギリシャ神話のニンフのダフネはある日、アポロン神に見初められました。
アポロンはエロス(キューピッド)の金の矢に射られ、ダフネが好きで好きでたまらなくなってしまったのです。
一方、ダフネはエロス(キューピッド)の鉛の矢に射られ、アポロンが嫌で嫌でたまらなくなっていました。
アポロンのストーキングに捕まらんとする瞬間。
ダフネは父のペネイオス神に叫びます。「こんな男のものになるくらいなら私を月桂樹に変えて!」と頼みました。
見る見るうちに、ダフネは月桂樹へと変わっていきます。
はじらいのヴィーナス像もいくつか見られました。
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ「ダヴィデ」
1623年から24年の作品です。
この作品もシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の依頼で制作されました。
巨人ゴリアテに向けて、今まさに投石せんと身構えるダビデ。
ドナテッロのダビデは、ゴリアテとの対決を制して恍惚の状態でしたが。
ベルニーニのものは、ミケランジェロのものと同様で、戦いに向かう寸前の闘志を燃やす瞬間を描いています。
これは「レダと白鳥」
アントニオ・カノーヴァ「Pauline Bonaparte 」
この女性はナポレオンの妹・ポーリーヌです。ナポレオンはポーリーヌを、当時のボルゲーゼ当主カミロと結婚させ、合法的にボルゲーゼ家のコレクションを寄贈させることに成功しました。
ポーリーヌはナポレオンの妹の中で最も美しいと言われました。彼女はパーティの招待客に、このカノーヴァの作品を見せて自慢するのが好きだったそうです。
浮気で自由奔放な女性でしたが、兄・ナポレオンを最後まで敬愛しており、他の兄弟姉妹がナポレオンを見捨てる中、最果てのセントヘレナ島を訪れようとさえしています。
ベルニーニと並ぶボルゲーゼの看板はカラヴァッジョ・コレクションです。
カラヴァッジョ「バッカスに扮した自画像」
1593年から95年頃の作品です。ミラノからローマにやって来て、これから名を上げようという時期。このバッカスは不健康そうな印象がありますが、当時カラヴァッジョは闘病中(マラリア説がある)で入院していた時期であるとか。
カラヴァッジョ「執筆する聖ヒエロニムス」
1605年から06年の作品です。聖ヒエロニムスの赤い衣と骸骨が劇的で印象的です。
カラヴァッジョ「蛇の聖母」
1605年から06年の作品です。邪悪の象徴たる蛇を踏み潰すイエスを描いています。この作品は聖ピエトロ大聖堂に飾るために描かれたそうですが、すぐに外されてしまい、ボルゲーゼ卿が引き取ったようです。老醜の聖アンナや、胸をはだけた聖母が品が無いと取られたそうな。
カラヴァッジョ「果物籠を持つ少年」
1593年から95年頃の作品です。これもローマに来たばかりに描かれた作品。美少年と果物はカラヴァッジョの得意技です。モデルの少年は画家仲間で、16歳だそうです。カラヴァッジョの葡萄は本当に美味しそうです。
ベルナルディーノ・チェーザリ「ディアーナとアクタイオーン」
16〜17世紀のイタリアの画家で、カラヴァッジョの師として知られるジュゼッペ・チェーザリの弟です。ディアナの水浴を覗いてしまったために、鹿に変身させられるアクタイオンを描く人気テーマです。
ルティリオ・マネッティ「アンドロメダを助けるペルセウス」
1610年から13年頃の作品です。海の怪物の生贄にされそうな女王アンドロメダを救う英雄ペルセウス。やがて二人は結婚しました。
ドッソ・ドッシ「魔女キルケ(メリッサ)」
1520年頃の作品です。ドッソはフェラーラを拠点に活動した画家です。この作品は歯向かう者を動物に変えてしまう魔女を描いているとされます。
ここがショップです。
この手のおもちゃも大好きですが、ちょっと高いですね。
49ユーロで図録買ってしまった。
間違ってイタリア語版買おうとしたら、店員のにいちゃんが
「これはイタリア語版だよ」
「嘘?!」
「こっちに英語版もあるぞ。こっちにするか?」
「そっちで!グラッチェ」
・・という危ない場面もありました。ま、どっちにしても写真しか見ないけど。
ローマ歴史巡り⑥【コロッセオ、フォロ・ロマーノ】
イタリア、ローマの旅行記です。
コロッセオ
ローマの象徴・コロッセオにやってきました。
「コロッセオがある限り、ローマも存在するだろう。コロッセオが崩れる時、ローマも終わりとなろう。が、ローマが終わる時は、世界の終わる時だ」という有名な言葉もあります。
紀元70年から建設が始められ、80年に完成したそうです。ウェスパシアヌス帝とその息子ティトゥス帝の時代でした。
周囲527メートル、高さ57メートルで5万人(もっと入った説もある)収容の巨大闘技場でした。東京ドームよりやや小さめですね。
外縁の部分が途中で無くなってるのは、闘技場としての役目を終えた中世以降、石材の採掘場と化したためです。
コロッセオは貴族の邸宅や教会(サンピエトロ大聖堂も)の石材としてリサイクルされていきました。
コロッセオは火山灰を利用したローマン・コンクリートを使用して造られました。ローマン・コンクリートはパンテオンなどでも使われ、耐久性の強さで知られています。
外側は4階から出来上がっています。
円柱は下からドーリス式、イオニア式、コリント式の各様式で彩られています。このアーチの部分にはかつては大理石彫刻が並んでいたと言われます。
↓これがドーリス式。一番シンプルです。
↓これがイオニア式。柱頭が渦巻き飾りになっているのが特徴です。
↓これがコリント式。柱頭にアカンスの葉の装飾が飾られます。
ローマでも最も人気のある観光スポットなので、早くも行列。
さて入場していきましょう。
ここでは剣闘士や猛獣の殺し合いなどの見世物が催され、その多くは残酷なものでした。主に午前中に猛獣ショー、午後に剣闘士の戦いが行われたと言います。水を入れて模擬海戦まで行われていた、という話もありますが、真偽のほどは分かりません。
映画「グラディエーター」でもお馴染みですね。
当時のローマは帝政でしたが、このような庶民のための娯楽施設で人気とりをすることによって、政治への不満をそらすことが必要でした。なんと入場料は無料だったのです。いわゆる「パンとサーカス」と呼ばれる民衆懐柔策ですね。
皇帝ネロの暴政の中、ローマ大火(西暦64年)や内乱という国難が続き、民衆の政治への不満が燻っていた時代でした。
客席は前列から偉い順になっていました。一番前は元老院議員、騎士階級席、裕福市民席、一般市民・女性・奴隷と続いていたそうです。
もちろん皇帝と家族の席は別格で、一段高いテラスにおかれました。
半月型にアリーナが復元されていますが、今は地下構造丸見えですね。
地下には剣闘士と戦わせる猛獣の檻が置かれていました。
檻は人力エレベーターでアリーナへと引き上げられたそうですね。
これ人力エレベーターの模型です。
象、ライオン、ワニなどと戦わされたというと残酷なイメージがありますが、実際には猛獣は鎖でつながれていたそうです。バトルというよりは狩のようなものだったようです。
剣闘士は死刑囚や捕虜などがつとめて、結果次第では市民権を得ることが出来ました。
しかし血なまぐさい見世物はキリスト教時代になると下火になり、廃止されてしまったそうです。
それに伴ってコロッセオも廃墟となり、石材提供の場となってしまったとか。
石だけでなくレンガが大量に使われているのが分かります。
レンガをローマン・コンクリートで固めたのでしょうか。
この巨大なスタジアムを、重機もない時代に十年たらずで建造できたのは様々な工夫があったことが分かりますね。
ここはショップです。
コロッセオという名前は、当時この傍らに立っていたネロ帝の巨像(コロッスス)に由来します。
当時は「アンフィシアター(円形闘技場)」と呼ばれていたそうです。
今夜もお客は満杯
そろそろ足を踏み鳴らし
開演のベル、待ち焦がれてる
コンスタンティヌス帝の凱旋門
315年にミルウィウス橋の戦いに勝利して凱旋したコンスタンティヌス帝を褒め称えるため、造られました。ミルウィウス橋の戦いはコンスタンティヌスの天下取りの戦いの一つです。西ローマ正帝マクセンティウスを撃破して溺死させました。
高さは約28メートルで、ローマ最大の凱旋門だそうです。パリのカルーゼル凱旋門のモデルとなりました。
コンスタンティヌスの偉大さを褒め称える言葉が書かれています。
表面の装飾は、トラヤヌス帝やハドリアヌス帝の建造物からのリサイクルも多いみたいです。中央通路西側面。トラヤヌス帝時代のものです。
↓こちらはハドリアヌス帝時代の浮彫です。北正面の左側・豚狩り、アポロ神犠牲です。
↓こちらもハドリアヌス帝時代の浮彫です。北正面の右側・ライオン狩り、ヘラクレス神犠牲です。ローマ帝国の全盛時・五賢帝の栄光って感じですね。
この後は、フォロ・ロマーノへと向かいます。コロッセオのすぐそばにフォロ・ロマーノがあります。
パラティーノの丘
まずはフォロ・ロマーノの全景を見下ろすために、パラティーノの丘へちょっとだけ上がっていきます。
パラティーノの丘は紀元前753年のローマ建国神話の舞台と言われています。
狼に育てられた双子の兄弟ロムルスがレムスを殺して、ローマを建国したとされます。
古代ローマ帝国時代には、歴代皇帝の邸宅が立ち並ぶ高級住宅街だったとか。
ルネッサンスの時代には富裕階級によって、美しい庭園がつくられました。
さあ、見どころのテラスに到着しました。
フォロ・ロマーノを一望できます。
ここは絶景です!
2000年前に既に100万都市だったローマ。
そのローマの中心がこのフォロ・ロマーノだったのです。
フォロ・ロマーノ
パラティーノの丘から降りて、実際にフォロ・ロマーノをまわっていきます。
「ティトゥス帝の凱旋門」です。
ユダヤ戦争の戦勝記念として、81年に建てられました。エルサレムを陥落させ、ローマを勝利に導いたティトゥス帝の凱旋式の様子がレリーフに刻まれています。
エルサレムの神殿から奪われたユダヤの燭台は、戦利品として凱旋式で誇示されました。
敗者を容赦なく晒すところは、大陸国家らしい冷徹さですね。
ティトゥス帝は在任わずか2年で病死しますが、在任中の紀元79年にヴェスビオ火山噴火によるポンペイ壊滅事件が発生。ティトゥス帝は救助活動に全力を尽くしました。
そのためか五賢帝以前の最良の皇帝という評価もあります。
これは「マクセンティウス帝のバジリカ」です。バジリカとは集会所のこと。
306年にマクセンティウス帝が建設を始め、コンスタンティヌス帝の時代に完成しました。今はレンガが剥き出しですが、当時は大理石など美しい石が張ってあり、屋根もありました。
これ、さっき登ってたパラティーノの丘のテラスです。
これは「ロムルスの神殿」です。
マクセンティウス帝が、夭逝した息子ロムルスに捧げるために建てた神殿です。未完だとか。
「アントニヌス・ピウス帝とファウスティーナの神殿」です。
五賢帝の一人アントニヌス・ピウス帝が皇后の死を悼み、141年に建てた神殿です。円柱と階段が元から残っているものです。中の教会は17世紀に建てられたものらしい。
「カストルとポルックスの神殿」です。
紀元前495年の「レギッルス湖畔の戦い」でローマ軍は勝利しますが、双子神のカストルとポルックスがこの戦いに勝利をもたらしたとされ、彼らに捧げるため建てられた神殿です。現在残る3本の柱は、紀元前6年のアウグストゥス帝による修復時のものらしい。
「ヴェスタの神殿」があります。
元は円形の神殿で、神殿内では「聖なる火」が灯され、炉とかまどの女神ヴェスタに捧げられていました。
ヴェスタの神殿のすぐそばに「ヴェスタの巫女の家」があります。
「聖なる火」を守っていた4人(のちに6人)の巫女たちが生活した住居です。
彼女たちは30歳で任を解かれるため、純潔であることが求められたそうです。(純潔を汚すと生き埋めの刑に処された!)
中庭には巫女たちの像が飾られていて美しい。
頭部が破壊された巫女はキリスト教に改宗した巫女らしいですね。
「カエサルの神殿」です。
紀元前44年、ブルータスら元老院議員によって暗殺されたのがユリウス・カエサル。ローマ史上最大のスターです。
カエサルの火葬はここで行われ、子分のアントニウスが追悼演説をした場所に、アウグストゥス帝が神殿を建てました。その残骸です。カエサルの命日にはこの火葬場所に花束が置かれるそうですね。
「ユリウスのバジリカ」です。
名前でわかる通りユリウス・カエサルが建設を始め、アウグストゥス帝が完成させました。主に司法・行政に利用され、当時は4つの裁判所があったとか。
「サトゥルヌスの神殿」です。
ここには国家の財宝が収められていたとか。現在残っているのは神殿の入口部分だった8本の円柱で、紀元前42年の再建だそうです。
再建でも紀元前というところが、ローマ史の途轍もないところですね。
これが「クーリア(元老院議事堂)」です。
ここが政治の中心だったんですね。カエサル、アウグストゥスなどによって何度も再建され、現在のものは20世紀の復元です。
「セヴェルス帝の凱旋門」です。
203年に建てられました。セヴェルス帝が勝利したパルティアとの戦いを描いたパネルがあります。
凱旋門の左脇後方に「ローマのへそ」があります。帝都ローマの基準点で、古代ローマの市街地測量の原点となった地点です。
フォロ・ロマーノの多くの建物が廃墟となったのは、コロッセオと同様にローマ人自身が石材としてリサイクルしたためらしいですね。
見ごたえたっぷりでした。
コロッセオ、フォロ・ロマーノ見学の後はそこいらを散策していきます。
ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂
これがヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂です。
イタリアの国民国家としての統一は遅く、日本やドイツとほぼ同時期の1861年でした。この白亜の殿堂は、初代国王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世を記念して、1911年に完成しました。
ローマっ子はもっぱら愛称の「ヴィットリアーノ」という呼び方をしています。
中央の騎馬像がヴィットリオ・エマヌエーレ2世です。
サルデーニャ王国軍を率い、イタリア統一戦争を戦いました。
同じくイタリア統一を目指すガリバルディから占領地を譲られ、1861年にイタリア国王に選ばれました。
やがて彼は王国の国父と呼ばれる存在となりました。
台座中央には「ローマの像」の寓意像があります。
その足元には第一次大戦の「無名戦士の像」がありました。儀仗兵が常時これを守ります。第一次大戦にはイタリアは、オーストリアに実効支配されていた旧ヴェネツィア共和国領(未回収のイタリア)を奪還すべく、連合国側で参戦。長く苦しい塹壕戦を戦いました。
この建物はできた当初は「入れ歯」だとか「ウエディングケーキ」「タイプライター」などと酷評されました。
が、今では立派なローマのランドマークとなっています。
ヴェネツィア広場が見下ろせます。左側の茶色の建物はヴェネツィア宮殿です。
このヴェネツィア宮殿の2階のバルコニーで、ベニート・ムッソリーニは何度も演説を行いました。第二次大戦の参戦もここで群衆に告げられました。
ムッソリーニはヴァチカン問題の解決や、シチリア・マフィアの殲滅など、おそらく彼でなければ出来なかったような業績もあり、ドイツにおけるヒトラーほどタブー視されてはいません。
サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会
ヴェネツィア広場の付近に多数の美術品で知られる教会があります。
教会の前には「ミネルヴァのひよこ」と呼ばれる小さなオベリスクがあります。
紀元前6世紀のエジプトのもので、この教会の中庭で見つかったものだそうです。
ちなみにこの台座の象さんはベルニーニの工房作だそうです。
内装はローマ唯一のゴシック様式を持ちます。天井のブルーと、金色の星の配色が最高にいいですね!
教会内部は小美術館と言えるほど、ルネッサンス芸術が溢れています。が、私が行った時は修復中で入場できませんでした。(隙間から天井だけ撮影した)見たかったミケランジェロ「あがないの主、キリスト」は見れませんでした。
今回のローマ紀行での最大の無念は、このミネルヴァ教会でした。2回も行ってみたんですけど、2回とも入れなかった。ヤケを起こして?ミネルヴァ教会のそばのジェラート屋でアイス食べました。
ジェズ教会
もう一つこの近辺にはジェズ教会という素晴らしい教会があります。
日本でも有名なローマ・カトリック「イエズス会」の総本山であった教会です。あのフランシスコ・ザビエルが眠る教会でもあります。
ジェズとは「イエス」を意味します。
安土桃山時代、九州のキリシタン大名によってローマにおくられた「天正遣欧使節」の4人の少年もこの教会に立ち寄っています。
クーポラのフレスコ画はジョバンニ・バッティスタ・ガウッリの作です。
ガウッリの天井画「キリストの御名の勝利」も素晴らしい。
鏡が置いてあって、天井をじっくり見れます。
ぶらぶら散策していきます。海外の街並み散策って楽しいんですよね。
土産物屋をちょっと覗いてみます。変なのもありますね笑
ローマには銀幕の大スターがいっぱい。
バルベリーニ広場
バルベリーニ広場に行き着きました。
バルベリーニ広場中央にあるベルニーニ「トリトーネの噴水」です。
ギリシャ神話の海神トリトンのことで、法螺貝を吹いて水を自由に操る神です。
ここはバルベリーニ宮殿です。今は美術館として利用されています。古典名画も多いこの美術館を鑑賞する時間はなく、ここも次回の宿題となりました。
この入り口は、映画「ローマの休日」でアン王女が滞在する大使館として使われました。
バルベリーニ広場からヴェネト通りに向かうところにはベルニーニ「蜂の噴水」がありますね。
二枚貝に3匹の蜂がとまっており、それらの下から水が供給されているというデザインです。
仙台芸術巡り
10年ぶりに仙台にやってきました。
JR仙台駅
仙台は「杜の都」と呼ばれる緑多き都です。
さて凶事が多い今回の旅。地下鉄の国際センター駅に降り立った途端、「ピロリロリン」と緊急地震速報が鳴り響きました。
その瞬間「ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ・・・」と関東では聞いたこともない地鳴りがなり、しばらく強く揺れました。震度5強の地震が宮城県を襲ったのです。またしても呪われている。
宮城県美術館
美術館の前に人がたまってますが、実は地震の影響で追い出された人たちです。安全確認のために、なんと1時間ほど館内立ち入り禁止だとか。なんというハードラックだ・・・。
佐藤忠良「若い女」
佐藤忠良「カンカン帽」
一時は休止か?とおそれましたが、しばらくして再開。ほっとしました。
常設展の佐藤忠良記念館へと向かいます。佐藤忠良は宮城県出身の、戦後を代表する大彫刻家です。
佐藤忠良「群馬の人」。これは出世作です。
佐藤忠良「記録をつくった男の顔」
これは王監督じゃねえか!私らにとっては王さんは天皇陛下みたいな存在だからな。
佐藤忠良「帽子・夏」。これが代表作です。
佐藤忠良「若い女・シャツ」
佐藤忠良「オリエ '85」
これは実の娘で女優さんの佐藤オリエさんがモデル。
佐藤忠良「夏の像」
これは釧路の幣舞橋に置かれている有名な作品ですね。地震の影響で封鎖されていて、遠くからしか見れませんでした。
舟越保武「原の城」
佐藤忠良の盟友・舟越保武の有名な作品。島原一揆の亡霊を描いた。
佐藤忠良記念館が写真撮影可とは思わなかったです。素晴らしい作品群を撮影出来て、今までの不運も少し取り返せた感じがしました。
続けて仙台城へと向かいます。しかし観光バス「る〜ぷる仙台」はなんと絶賛休止中!やはり呪われている。交通手段が無く、山城を歩いて行くしかない。
仙台城
登るのがキツい。
出た。仙台城の主・伊達政宗です。
独眼竜の異名を取りました。
仙台城跡から見下ろす市街地です。
渡辺謙主演の大河ドラマは大人気を博しました。
実の母(岩下志麻)に毒殺されそうになって、弟を成敗した場面は大河史上に残る緊迫感でした。
土産店で独眼竜Tシャツ買えました。
この後は伊達家の霊廟「瑞鳳殿」に向かう予定でしたが、絶賛休止中。もうウンザリして気力もなくなってタクシーで駅前まで。
青葉亭
気を取り直して牛タン定食食べました!
これが仙台名物。コリコリした食感がたまらん。
ずんだシェイクも美味しかったぞ。
一夜明けました。予定では三陸海岸に足を伸ばす予定でしたが、震度5強が来てしまっては海沿いは不穏と判断して、三陸の宿をキャンセル。今の運勢では津波を招きかねないし。この日は午前中に仙台市内を散策し、午後には帰京することにしました。
定禅寺通り
「杜の都」のイメージぴったりのケヤキ並木です。
エミリオ・グレコ「夏の思い出」
ジャコモ・マンズー「オデュッセウス」
クロチェッティ「水浴の女」
杜の都をさらに堪能するために森林公園へと向かいます。
台原森林公園
舟越保武「茉莉花」
なかなか清々しいです。
瑞鳳殿や仙台市博物館が休館中のため、行く場所がなくなって来たのですが、緑の中を散策するとリフレッシュできていいですね。
佐藤忠良「緑の風」
いい彫刻もいっぱい見れて、結果それなりに満足できた旅でした・・
・・とブログには書いておこう。
ガラガラ笑