ロンドン芸術巡り⑨【ナショナル・ポートレートギャラリー⑴】
イギリス(イングランド)旅行記です。ロンドン・ナショナルギャラリーの見学の後に、まだ時間がかなりあまりました。
ナショナル・ポートレートギャラリー
ナショナルギャラリーの裏手に、これまた無料の美術館があるので行ってみます。「ナショナル・ポートレートギャラリー」という肖像画専門の美術館です。
テューダー朝から現代までの、イギリスの著名人の肖像画や彫刻を楽しめます。
フロアは上から古い順になってるんですね。
まずはスターぞろいのテューダー朝からスタートです。
ヘンリー八世と王妃キャサリン・オブ・アラゴン
ヘンリー八世は、英国史上に残る自己中男。スペインから迎えた王妃キャサリン・オブ・アラゴンと、最初は仲睦まじかった。が、キャサリンが女児(のちのメアリ一世)しか産めないと、気持ちは急速に冷め、妖艶な愛人アン・ブーリンと結婚したくなってしまった。でもカトリックでは離婚は認められない。じゃあ一体どうするのか?
何とヴァチカンと絶縁し、自ら英国国教会(プロテスタント)を創り上げてしまった。英国の宗教改革は、ヘンリー八世の自己都合で実現したのです。
アン・ブーリン
傾国の悪女として語られることの多いアン・ブーリン。フランス仕込みの魅力で、ヘンリー八世を虜にし、キャサリン・オブ・アラゴンから王妃の座を奪った。しかし彼女もまた女児しか産めなかったため、自己中男・ヘンリー八世から飽きられ、捨てられてしまう。それどころか姦通罪の疑いをかけられ、ロンドン塔で処刑される悲劇の最期を遂げる。今もロンドン塔では、首のないアン・ブーリンの幽霊が出現するという怪談があります。
しかしアン・ブーリンは英国史に決定的な影響を及ぼしている。
一つは、彼女の存在が英国国教会創設の発端になったこと。
もう一つは、たった一人残した女児が英国史上に残る名君になったこと。その子の名はエリザベス一世。
メアリー一世
ヘンリー八世の死後、権力闘争を勝ち抜いたのがメアリー一世。アン・ブーリンに王妃の座を奪われたキャサリン・オブ・アラゴンの遺児である。敬虔なカトリック信者だったメアリーは、王座を射止めると、徹底的な対抗宗教改革を行った。
英国国教会を解散しただけでは飽きたらず、プロテスタントの処刑を次々と行い、「ブラッディ・メアリー」と怖れられた。
しかし彼女は後継ぎを残せず、心ならずも「憎きアン・ブーリンの娘」に王位を譲らざるを得なかった。それがロンドン塔に幽閉されていたエリザベスである。
エリザベス一世(3枚連続)
ロンドン塔送りになりながらも、女王の座についた強運の女がエリザベス一世。
彼女の生涯はカトリック勢力との闘争に尽きる。プロテスタントの彼女は英国国教会を復興させる。ただし「ブラッディ・メアリー」の再現はしたくない。「カトリックの信仰も黙認」という玉虫色の、しかし賢い選択をする。
しかしカトリック大国スペインとの対決は、避けられない状況となってくる。カトリックのスコットランド女王メアリー・スチュアートを処刑しただけでなく、「スペインへの海賊行為を取り締まる」と言いながら、裏で支援していたことがバレてしまったのだ。
スペインのフェリペ二世は激怒して、1588年イングランド討伐を命じ、無敵艦隊を出撃させた。
しかしここも強運の女王。戦力で劣りながらも、粘り強く抗戦している間に暴風雨が吹き、無敵艦隊は海の藻屑と消えてしまった。
かくしてエリザベス一世の名は、英国史上不滅のものとなった。
メアリー・スチュアート
メアリー・スチュアートは生れながらのスコットランド女王である。しかし夫を爆殺した嫌疑をかけられ、スコットランドを追われ、イングランドのエリザベスのもとに庇護を求めにくる。これにはエリザベスも困り果てた。石田三成が暗殺されそうになった時に、最大の政敵・徳川家康のもとに逃げ込んだ例に似ている。
イングランド国内のカトリック派にしてみれば、メアリーを担いで旗印にすれば、エリザベス=英国国教会(プロテスタント)体制を倒せる。逆襲の好機到来だ。
エリザベスにしてみれば、メアリーはまさに獅子身中の虫で、邪魔な存在でしかない。かと言って処刑して自らの手を血で汚したくない。そうやってズルズルと20年も幽閉した後に、メアリーがエリザベス暗殺に加担していた決定的な証拠が見つかり、渋々処刑の命令書にサインをせざるを得なかった。
しかし二人の死後、運命は逆転する。「処女王」として生涯結婚をしなかったエリザベスには当然後継ぎはおらず、テユーダー朝は断絶。メアリー・スチュアートの遺児であるスコットランド王ジェイムズ一世が、イングランド王も継承することになった。スチュアート朝の始まりである。メアリー・スチュアートは死の数年前、「我が終わりに我が始まりあり」というフランス文字を布に刺繍していたという。
ウィリアム・シェイクスピア
イギリス・ルネサンス演劇を代表する劇作家・詩人である。四大悲劇『ハムレット』『マクベス』『オセロ』『リア王』をはじめ、『ロミオとジュリエット』『ヴェニスの商人』『夏の夜の夢』『ジュリアス・シーザー』など多くの傑作を残した。
ジェームズ一世
メアリー・スチュアートの息子のスコットランド王・ジェイムズは、37歳の時のエリザベス一世崩御に伴い、イングランド王ジェイムズ一世として即位した。彼は王権神授説の思想を持ち、議会を顧みることは殆どなかった。こうして不満がマグマのように溜まっていった。
チャールズ一世
チャールズ一世は父・ジェイムズ一世同様、王権神授説の信奉者で、議会否定派であった。折しも凶作・暴動が頻発するようになり、鎮圧の軍資金問題から議会派と完全対立。1642年ピューリタン革命を勃発させてしまう。そして6年後、逮捕され、処刑されてしまった。150年後のルイ16世はチャールズ一世を反面教師として学び、議会との対立を避けた。(でも結局処刑された)
チャールズ一世は、文化面での功績は大きく、アンソニー・ヴァン・ダイクを招聘、英国絵画の発展に大きく寄与した。レノルズもゲインズバラもヴァン・ダイクから大きな影響を受けたのだ。
オリバー・クロムウェル
クロムウェルはピューリタン革命では鉄騎隊を指揮して、議会派を勝利に導いた。しかしチャールズ一世を処刑し、イングランド共和国が建国されると、護国卿という名の独裁者となってしまった。クロムウェルの死後、王政復古が行われると、クロムウェルの墓はあばかれ、晒し首にされた。長く「王殺し」として貶められていたが、19世紀から再評価が進み、今は国会議事堂前に銅像が立っている。
チャールズ二世
チャールズ二世は10代の時にピューリタン革命が勃発し、各国に亡命しながら復権のチャンスを伺っていた。30歳の時に、ようやく王政復古で悲願のロンドン帰還。王座についてからも、ペストやロンドン大火など幾多の苦難を乗り越えてきたが、議会とは次第に対立を深め、次の代での名誉革命の遠因をつくってしまった。
アイザック・ニュートン
イギリスの科学者である。ニュートン力学の確立や、微積分法の発見などが主な業績。
ジョン・ロック
イギリスの哲学者である。「市民政府二論」などで自由主義的政治思想を提唱し、アメリカ独立宣言、フランス人権宣言に大きな影響を与えた。
ウエリントン公アーサー・ウェルズリー
ナポレオン戦争時代の英国陸軍元帥。1815年、ワーテルローの戦いでフランス・ナポレオン軍を撃破し、国民的英雄となった。その後は政治家に転身し、首相として二度組閣している。
ホレーショ・ネルソン
1805年トラファルガー海戦でナポレオンのフランス・スペイン連合艦隊に圧勝したことで知られる。敵艦の大半を戦闘不能にしたのに対して、イギリス艦隊は喪失艦ゼロという完勝だったが、ネルソン自身も同海戦で戦死してしまった。開戦に際しての信号旗「England expects that every man will do his duty(英国は各員がその義務を尽くすことを期待する)」が有名。100年後の日本海海戦・東郷平八郎元帥と並び称される「海軍の神様」である。
エマ・ハミルトン
英国史上に残る美女で、ネルソン提督との不倫関係は一大スキャンダルとなった。トラファルガー海戦でネルソンが戦死した後は没落し、債権者監獄に入れられた。
そんな彼女の生涯を描いた映画が、ヴィヴィアン・リー主演の「美女ありき」です。
↓「美女ありき」
もうちょっと続くのじゃよ。